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サーサーン朝

サーサーン朝(226年から651年)はイラン高原・メソポタミアなどを支配した王朝・帝国。しばしばササン朝ペルシアとも呼ばれる。首都はクテシフォン。ゾロアスター教を国教とし、アケメネス朝ペルシャの復興を目標とした。その支配領域はエーラーン・シャフルと呼ばれ、おおよそアナトリア東部、アルメニアからアムダリア川西岸、アフガニスタン周辺まで及んだ。


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サーサーン朝は、アケメネス朝と同じくイラン高原のパールス地方から勃興した勢力で、特に始祖アルダフシール自身がゾロアスター教の神官階層から出現したこともあって、様々な変遷はあったもののゾロアスター教の王権思想と強い結びつきを持った政権であった。

後期サーサーン朝では官僚的中央集権化が進み、その諸制度は後のアッバース朝などのイスラム帝国に引き継がれた。 また、後代シーア派のイマームや、サファヴィー朝の宗祖サイイド・サフィーユッディーン・イスハークがサーサーン王家の血を引いているなどの伝承が生まれた。

特にカスピ海南岸の地域ではズィヤール朝やバーワンド家などサーサーン朝時代まで遡る名家が、(他の地域同様)アラブ征服時代以降にイラン方面まで進出したハーシム家などの後にサイイドと呼ばれる人々と婚姻を結んで来た歴史を持つ。

その為、現在のイラン民族にとって、アケメネス朝ではなく、サーサーン朝の方が直接の国家的祖先と見なされている。

これは近代化の影響だけでなく、そもそもサーサーン朝時代の歴史などを編纂し始めた王朝末期やアッバース朝時代の頃には、すでにアケメネス朝時代は完全に神話化・伝説化し、セレウコス朝時代については失伝、パルティア時代も殆ど忘れ去られていた状態で、過去への歴史的な憧憬は神話時代を除くとペルシア文学ではサーサーン朝後期のホスロー1世の時代が特に賞揚されてきた伝統によっている。

クテシフォンの写真。クテシフォンはイラクにある古代遺跡。


サーサーン朝時代は、西からキリスト教、東から仏教が浸透し、パレスチナを追われたユダヤ人は、サーサーン朝治下のバビロニアでタルムードを編纂した。サーサーン朝はインド、クシャーナ朝、ローマ帝国、中国、突厥など、当時の世界帝国と交流があり、ユーラシア西部の文明の一大中心地であり十字路でもあった。このような素地の中で、インド文学、ギリシャ文学などを総合したアラビアンナイトの原型「ハザール・アフサーナ」が誕生し、キリスト教、ゾロアスター教、仏教などの世界宗教を総合するマニ教が誕生した。反面国家と結びついたゾロアスター教は、キリスト教の東方への浸透と、仏教の西方への浸透を阻む役割を果たした。

また、サーサーン朝で鋳造された銀貨は、ソグド人などの中央ユーラシア社会における高額決裁などの基軸通貨として大変尊重された。

サーサーン朝ではもともとゾロアスター教の宗教観に影響されて、文字資料の作成が忌まれていたようで、自ら歴史を編纂する事が無かったようである。そのため、サーサーン朝の歴史についてはアッバース朝時代のウラマーであるタバリーが著した「諸使徒と諸王の歴史」収録の記事が現存する通史として最古であり、他にはサーサーン朝の歴代君主たちが残した碑文群やマニ教文書、タバリーとほぼ同時期に作られたパフラヴィー語による文書資料群、ラテン語、ギリシア語、シリア語などの年代記、貨幣資料などによって歴史や文化などが研究されている。

この王朝で育まれた文化は後のイスラム時代の文化にも多大な影響を残した。