世界史

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大北方戦争

大北方戦争は、ロシア帝国、デンマーク-ノルウェーそしてザクセン-ポーランドの同盟諸国と、スウェーデンとの間で、1700年から1721年の21年間にわたって行われた戦争である。


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戦争は同盟側によるスウェーデンへの連携攻撃で始まったが、戦争前期はスウェーデンが圧倒した。1706年までの戦闘の殆どに勝利し、ポーランド王を廃位させ、傀儡王を立てた。デンマークもロシアも直接戦闘を避け、一時はスウェーデンが覇権を握ったと思われたが、しかしロシアは地の利を味方につけて焦土作戦を展開、1709年のポルタヴァの戦いで形勢を逆転した。

その後反スウェーデン陣営が続々反撃に出て、1721年のニスタット条約とストックホルム条約の締結によって終了した。この戦争の結果、ロシアはスウェーデンのバルト海における覇権を奪い取り、ヨーロッパにおける列強の一員となった。 またロシアは、この戦争で獲得した地に新都サンクトペテルブルクを建設した。

この戦争は、ロシア皇帝ピョートル1世とスウェーデン王カール12世の事実上の一騎打ちであった。大北方戦争は、後に文化人や軍人の研究材料として取り上げられている。ヴォルテールやクラウゼヴィッツによるものが有名である。

画像:Stora nordiska kriget

画像:Victory at Narva.

神聖ローマ帝国 成立

神聖ローマ帝国は、962年から1806年に中世に現在のドイツ、オーストリア、チェコ、イタリア北部を中心に存在していた政体。帝国というよりは実質的に大小の国家連合体であった期間が長く、この中から後のオーストリア帝国(当時はオーストリア大公領およびハプスブルク家支配地域)やプロイセン王国などドイツ諸国家が成長していった。ドイツ帝国とも呼ばれ、1806年帝国解散の詔勅はこの名で行われた。


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962年オットー1世(大帝)がローマ教皇ヨハネス12世により、古代ローマ帝国の継承者として皇帝に戴冠したときから始まる。もっとも神聖ローマ皇帝の初代はゲルマン部族国家の王で最初にローマ教皇権と結託してローマ皇帝の帝冠を頂いたカール大帝であるという思想・理念もある。

もともとザクセン部族大公権を権力の母体としてその歴史を開始しており、ザクセン人の伝統はフランク人と違って非常時以外には王を戴かぬ選挙王制だったため、当初から帝権は弱体で、封建領主の連合体という側面が強かった。その上歴代皇帝は、「ローマ帝国」という名目の為にイタリアの支配権を唱え、度々侵攻した(イタリア政策)。このためドイツでの帝権強化にまで手が回らず、他国に比べ中央集権化が遅れた。

1254年にホーエンシュタウフェン朝が断絶すると、20年近くも皇帝が選ばれもしない大空位時代となり、帝国としての実体をまったく成さない状態となった。14世紀のカール4世(在位;1347年 - 1378年)による金印勅書以降、皇帝は有力な7人の封建領主(選帝侯)による選挙で選ばれるようになり、さらに選帝侯には裁判権、貨幣鋳造権、独自の外交権等の強大な自治権が与えられた。

これに対し、1495年から、帝国改造が皇帝マクシミリアン1世とマインツ大司教ベルトルト・フォン・ヘンネブルクの主導で行われた。その結果、神聖ローマ帝国は諸侯の連合体として新たな歴史を歩むこととなる。この帝国改造の流れに終止符を打ったのが1648年のヴェストファーレン条約であった。これにより、各諸侯に大幅な自治が認められる一方、平和的な紛争解決手段が整えられ、諸侯の協力による帝国の集団防衛という神聖ローマ帝国独特の制度が確立することとなった。

しかしながら、その後プロイセンが台頭したことにより、諸侯のバランスは崩壊。帝国はやがて機能不全に陥った。

19世紀初頭にはフランス皇帝ナポレオン・ボナパルトの侵攻を受け、ナポレオンがフランスの属国的なライン同盟を結成し、帝国からの脱退を宣言すると、既に「オーストリア皇帝フランツ1世」を称していた神聖ローマ帝国皇帝フランツ2世は退位し、帝国は完全に解体されて終焉を迎えた。

神聖ローマ皇帝の選帝侯たち
神聖ローマ皇帝の選帝侯たち

ウィーン王宮宝物館にある神聖ローマ帝国の王冠
神聖ローマ帝国の王冠