世界史

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スノッリ・ストゥルルソン暗殺

スノッリ・ストゥルルソンは、アイスランドのフヴァンムル・イー・ダーリルで生まれた詩人・政治家・歴史家である。

スノッリはアイスランドの学問の中心の一つオッディで学問を学んだ。彼の養父ヨーン・ロフツソン は賢者セームンドルの孫に当たる。父親は、当時のアイスランドで最も権力を強めたストゥルラ・ソールザルソン。彼の一族は、12世紀に権勢を極め、当時のアイスランドを「ストゥルルング時代」と呼ぶことがある。

アイスランド

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スノッリは、1215年-1218年、1222年-1231年(1235年)の二度にわたってアイスランドの全島議会で、法の宣言者を務めた。1199年には裕福なるベルシの娘ヘルディースと結婚、1206年にレイクホルトに移り住んだ。スノッリはそこを終生の家とし、ボルガル・フィヨルド一帯に広大な領地を保有した。

1218年から1220年にわたり、スノッリはスカンディナヴィアへ渡航するが、最も重要な目的はノルウェー訪問だった。彼はヤール・スクーリの食客となり、ノルウェー王ホーコン4世の従士の一人に加えられた。寛大なホーコン王への賞賛は、スノッリの「韻律法」に著されている。その一方で彼はアイスランドの独立を守るため、アイスランド国内のノルウェー王の支配を認めようとする勢力と王との関係を絶とうと画策していた。

スノッリ・ストゥルルソンの銅像1237年に再びスクーリを訪ねたスノッリは、スクーリとホーコン4世との確執に際しスクーリ側と看做されてノルウェー国外への渡航を禁止された。しかしこれを破ってアイスランドに帰国したため、王の怒りを買うことになった。

1241年、ホーコン4世からの手紙をスノッリの娘婿アールニがスノッリに渡し遅れた事が原因となり、彼は王の召還に応じなかったと看做された。9月22日、ノルウェー王を支持するもう一人の娘婿ギツルが手勢を連れてにスノッリが野天の温泉で入浴している時に襲撃し、スノッリは温泉脇の倉庫に隠れたが見つかって暗殺された。なお、アイスランドがノルウェーの支配下に置かれることとなったのは、スノッリの死から21年後の1262年である。

今日に残るスノッリの著作は少ないが、その中でも北欧神話を紹介している1222年の著作「散文エッダ」と、歴史書として高く評価されている「ヘイムスクリングラ」が、スノッリの代表作である。

原初同盟の成立

原初同盟の成立(1291年から1523年)は、伝説では原初同盟の結成は「リュトリの野」で行われたとされている。神聖ローマ皇帝ハインリヒ7世の死後、ハプスブルク家のアルブレヒトの息子フリードリヒがバイエルン公ルートヴィヒと帝位をめぐって争ったが、アルブレヒトを敵視していた原初同盟はバイエルン公を支持した。これに怒ったフリードリヒはハプスブルク家の精鋭を揃えてスイス領内に侵攻したが、1315年のモルガルテンの戦い、1386年のゼンパッハの戦いでスイス農民軍に打ち破られた。こうしてスイスからハプスブルク家の影響力が排除された。

このハプスブルク家との死闘のさなかの1353年に最初の3州に加えてグラールス州、ツーク州の両州とルツェルン、チューリッヒ、ベルンの各都市が原初同盟と個々に同盟を結ぶという形で同盟に加わった。こうしてできたのが「八州同盟」である。1440年代にトッゲンブルク伯領をめぐる争いによってチューリッヒが一時的に諸州と争ったことはあったにしろ、盟約者団は連合によって力を結集することでその地歩を築き、周辺諸国の干渉を排除していった。特に、1470年代にブルゴーニュ戦争でスイス領内へ侵攻したブルゴーニュ公国のシャルル突進公の軍勢を破ったことと、スイス人傭兵がヨーロッパ全域の戦場で活躍するようになったことで、スイスの国際的な地位は向上した。

伝統的にスイスの諸州の表記は連邦への加入順にされている。初めに原初同盟の最初の8つの州と都市があげられ、1481年以降に加入した州が時代順にならぶ。1499年に皇帝マクシミリアン1世がスイスを勢力下に収めようと侵入したがスイス軍の前に敗れた(シュヴァーベン戦争)。これによってスイスは神聖ローマ帝国からの事実上の独立を勝ち取った。1506年には教皇ユリウス2世が近衛兵として初めてスイス人傭兵を採用している。スイス人傭兵というものが存在しなくなった現在でも、教皇の衛兵は伝統的にスイス人が務めている。

この頃、スイスの軍勢は無敵を誇り、支配地域の拡張を目指してイタリア戦争などの周辺地域の紛争に干渉したが、1515年のマリニャーノの戦いでフランソワ1世率いるフランス軍に大敗を喫したことで、拡張政策の放棄を余儀なくされた。

スイスの地図

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スコータイ王朝

スコータイ王朝は13世紀?1438年ごろにタイに存在した王朝。タイ族最初の王朝と言われる。

雲南から南下してきたタイ族は、13世紀ごろまでは強力なアンコール王朝の支配力の下にあった。ところが、アンコール王朝のジャヤーヴァルマン7世が崩御すると、タイ人が進出していた地域におけるアンコール王朝の支配力が次第に弱まり始めた。ラート(現在のペッチャブーン市)の小タイ族領主のポークン・パームアンと、バーンヤーン(現在のナコーンタイ郡)の小タイ族領主のポークン・バーンクラーンハーオが共同でクメール人の勢力を追い出し、当時アンコール王朝の主要都市であったスコータイに小タイ族の王朝を建て、バーンクラーンハーオが王位に就きシーインタラーティットと称した(スコータイ王朝の成立)。ちなみにパームアンはそのとき摂政位に就いたと伝えられている。

スコータイ王朝は三代目ラームカムヘーン大王時代には黄金期を迎えた。ラームカムヘーンは最初のタイ文字を定め、中国との貿易も行われた。パヤオ王国のガムムアン王、ラーンナータイ王朝のマンラーイ王と同名を結び、マレー半島全域から、ベンガル半島までを掌握した。

しかしルータイ王時代までには各地で離反が相次ぎ小国になった。後に王に就いたリタイ王はすでに仏法の研究を積極的に行い三界論を著して、民衆の仏教理解を深めさせた。同時にタイ史上初めての一時的な仏教出家を果たした。これはすでに没落の兆候を示していたスコータイ王朝をリタイが仏法を持ってつなぎ止めようとしたことにあるとされる。リタイは結果的に王権思想の一つタンマラーチャー(ダルマラージャ)の思想を確立した。

このあたりでアユタヤ王朝が台頭する。アユタヤ初代王・ラーマーティボーディー1世はスコータイ王朝に圧迫を加え始めたが、ラーマーティボーディーはスコータイを掌握することはしなかった。サイルータイ王の時代にはパングワ王によって国を分離させられ、スコータイ王家はピッサヌロークを治めるのみになった。その後細々と国は続いていたが、マハータンマラーチャー4世の時代に、跡継ぎが断絶し、スコータイ王家の親戚であったアユタヤ王朝のラーメースワン王子(後のボーロマトライローカナート王)が後を取る形で、アユタヤ王朝に吸収され消滅した。