世界史

世界史を地図を使って紹介

一条鞭法

一条鞭法は、中国の税制。丁税と地税を一括して銀納する税制であり、明王朝の後期には中国各地で施行された。

現在の地図と明時代の地図を見比べてみる


大きな地図で見る

↓↓ 明(1368年 - 1644年)の地図 【e】




16世紀に入り、海禁政策が弛緩してアメリカ大陸や日本から多くの銀(メキシコ銀、日本銀)が流入したことが背景にある。16世紀中ごろには既に江南などで実施されており、16世紀末の万暦帝期において、宰相張居正のもとで全国に広まった。複雑化していた税制を、丁税(人頭税)と地税にまとめ、一括して銀で納税することを定めたものである。のちの清代における地丁銀制に影響を与えた。

世界史上における意義としては、フランクら一部の歴史家によれば、一条鞭法の導入は近代以前のユーラシアで最大の経済力を持つ中華帝国における通貨としての銀の重要性を従来以上に高め、東アジア全域で銀流通を活発化した。そのため、南北アメリカ大陸の膨大な銀生産を独占する西ヨーロッパ諸国の影響力が強まり、ヨーロッパによる世界制覇の遠因となったとされる。

地丁銀制は、中国の税制。 明代以来の一条鞭法に代わって実施された清代の税制。地銀(田畑の所有に対して課された税。地税とも言う)の中に丁銀(人丁、すなわち16歳?59歳の成年男子に課された人頭税。丁税とも言う)を繰り込み、一括して銀納させた。

デンマーク=ノルウェー

デンマーク=ノルウェーはデンマークとノルウェーを中心に構成されていた同君連合。カルマル連合が1523年にスウェーデンの最終的な離脱宣言で崩壊して以後、特にノルウェー王国参事会が廃止された1537年以後の呼称である。デンマークにはスレースヴィ・ホルシュタイン両公国も属していたが、それらは独自の行政単位であった。したがって、デンマーク・ノルウェー間での連合の解消は両公国との関係には影響せず、1864年まで同君連合を構成し続けた。


拡大地図を表示

1814年までの王国
1814年までの王国 1814年、キール条約によってノルウェーはスウェーデンへ割譲されることとなった。ノルウェーにおいてはクリスチャン・フレゼリクが国王に選出され、エイッツヴォル議会は憲法を採択した。しかし、ノルウェーの独立は国際的承認を受けられなかった。モス協定でスウェーデンはノルウェー憲法を承認し、ノルウェーは内政に関して高度の自治を獲得することとなった(スウェーデン=ノルウェー)。 ノルウェー人は、スウェーデンへの併合を避けるため、独立し、同時代のヨーロッパにおいて最も自由な憲法を制定しようと試みた。ノルウェーの王位継承者でもあったクリスチャン・フレゼリクは独立運動の指導者となり、エイッツヴォルに憲法制定議会を招集した。この議会は1814年5月17日にクリスチャン・フレゼリクを独立ノルウェーの国王に選んだ。

しかし、ノルウェーのこの独立は長続きしなかった。王太子カール・ユーハン率いるスウェーデン軍が7月に侵攻し、8月14日にノルウェーは休戦を余儀なくされた。クリスチャン・フレゼリクは臨時議会を召集し、退位を表明した。議会はスウェーデンとの同君連合に必要な憲法修正を行った。5月17日のエイッツヴォル憲法の大部分は維持することを許され、11月4日にノルウェー議会は、形式上は自発的に、スウェーデンのカール13世を国王に選出した。この連合はかなり緩やかなものであり、両国に共通なのは国王と外交のみであった。

ノルウェーはスウェーデンとの連合を強いられたが、デンマークとの文化的な絆の多くは依然として保たれた。1811年に設立された王立フレゼリク大学(現在のオスロ大学)によって、ノルウェー人はもはや教育を受けるためにコペンハーゲンに行く必要がなくなったが、ノルウェーの教育制度は依然としてデンマークのものと似通っていた。後にリクスモールと呼ばれることになるノルウェーの書き言葉もまた、20世紀初めに至るまで概してデンマーク語と同様であった。ただし19世紀中期にはオーセンによって作られたランスモールという新たな書き言葉も登場する。

1814年前後のナショナリズムの高揚に伴い、ノルウェーの立場からデンマークを批判するパンフレットも発行されていた。こうした形で見られるようなデンマークに対する不快感は、スウェーデンとの連合時代に入っても残り、デンマークとの連合はしばしば否定的に「400年間の夜」と呼ばれもした。しかし、その後の研究によって示された時代像は、功罪両面に光を当てたより具体的なものとなっていく。

ドイツにおける宗教改革

ルターに始まる宗教改革の萌芽は、その後ドイツから各地に拡大し、ローマ教皇の絶対主義に嫌悪していた周辺の諸侯の支持をも得て、カトリック内部の宗教改革運動から、ローマ教皇の影響からの政治・経済的な独立運動へと発展して行った。

カルヴァンの貢献が、礼拝様式、教会制度の改革にも及んだことにあるとすれば、ルターの貢献は、聖書のドイツ語訳にある。当時、ローマ・カソリック教会では、ラテン語がミサにおいて使用され、一般大衆には理解できなかった。ルターは聖書を、学者の手から一般人の手に取り戻したのである。また、音楽を好むルターは賛美歌の作詞・作曲をしたことにおいても知られている。


拡大地図を表示

ドイツ、フランスなどではカトリック勢力とプロテスタント勢力が相争い、凄惨な闘争を繰り広げた。

・カッペル戦争(スイス、1529年・1531年)
・シュマルカルデン戦争(ドイツ、1546-1547年)
・ユグノー戦争(フランス、1562-1598年)
・三十年戦争(ドイツ、1618-1648年)
・オランダ独立戦争


カトリック内部でも改革の必要性は認識されていたが、プロテスタント運動が引き金となり、カトリック教会ではトリエント公会議を開催した。また、他を非難するよりまず自ら戒め、規律正しい宗教生活しようとイグナチウス・ロヨラやフランシスコ・ザビエルらが中心となりイエズス会が設立された。イエズス会はその後、キリスト教の大分裂を防ぐべく欧州各国に勢力を伸ばし、非ヨーロッパ諸国への布教活動を行った。

1517年、教会による免罪符の販売に対して、ヴィッテンベルク大学神学部教授のマルティン・ルターが、95ヶ条の論題を示して批判を行った。まだ、この段階ではローマ教皇やカトリック教会そのものの批判にまでは至ることはなかったが、このルターの言動は大きな共感を持って受け入れられたため、ドイツ内に大きな波紋を生みだすことになった。事態の沈静化を図ったカトリック側は、論客ヨハン・エックをライプツィヒに送り、1519年にルターと討論させた。この場においてルターは、さらに踏み込んで教皇、カトリックに対する批判を示すことになった。

ルターはヴァルトブルク城の一室で新約聖書を翻訳した。一方、当時はハプスブルク家が婚姻政策を通じてヨーロッパに広大な所領を有し、神聖ローマ皇帝位を世襲化させ、カトリック理念のもとで一元的なヨーロッパ支配を試みていた。こうした矢先に起こったルターの行動は、一元的な帝国支配を揺るがせる大きな障害となった。1521年、ルターはヴォルムス帝国議会において自説の撤回を求められたが、これを拒んで帝国追放刑を受けた。この際、反ハプスブルク、反教皇の立場をとる有力諸侯ザクセン公フリードリヒがルターをかくまったため、ルターは彼の所領内にあるヴァルトブルク城で、新約聖書のドイツ語訳に着手することになった。

既にルター以前より聖書のドイツ語訳は試みられていたが、彼の翻訳した聖書が定本となって、当時発達しつつあった印刷技術にも支えられて各地に流通していった。このことは、中世カトリック世界の権威的言語であったラテン語にかわり、各国の言語に聖書が翻訳される潮流を加速させることになり、文化的な一元性が解体され、各国の「国語」が形成される端緒となるものでもあった。

原初同盟の成立

原初同盟の成立(1291年から1523年)は、伝説では原初同盟の結成は「リュトリの野」で行われたとされている。神聖ローマ皇帝ハインリヒ7世の死後、ハプスブルク家のアルブレヒトの息子フリードリヒがバイエルン公ルートヴィヒと帝位をめぐって争ったが、アルブレヒトを敵視していた原初同盟はバイエルン公を支持した。これに怒ったフリードリヒはハプスブルク家の精鋭を揃えてスイス領内に侵攻したが、1315年のモルガルテンの戦い、1386年のゼンパッハの戦いでスイス農民軍に打ち破られた。こうしてスイスからハプスブルク家の影響力が排除された。

このハプスブルク家との死闘のさなかの1353年に最初の3州に加えてグラールス州、ツーク州の両州とルツェルン、チューリッヒ、ベルンの各都市が原初同盟と個々に同盟を結ぶという形で同盟に加わった。こうしてできたのが「八州同盟」である。1440年代にトッゲンブルク伯領をめぐる争いによってチューリッヒが一時的に諸州と争ったことはあったにしろ、盟約者団は連合によって力を結集することでその地歩を築き、周辺諸国の干渉を排除していった。特に、1470年代にブルゴーニュ戦争でスイス領内へ侵攻したブルゴーニュ公国のシャルル突進公の軍勢を破ったことと、スイス人傭兵がヨーロッパ全域の戦場で活躍するようになったことで、スイスの国際的な地位は向上した。

伝統的にスイスの諸州の表記は連邦への加入順にされている。初めに原初同盟の最初の8つの州と都市があげられ、1481年以降に加入した州が時代順にならぶ。1499年に皇帝マクシミリアン1世がスイスを勢力下に収めようと侵入したがスイス軍の前に敗れた(シュヴァーベン戦争)。これによってスイスは神聖ローマ帝国からの事実上の独立を勝ち取った。1506年には教皇ユリウス2世が近衛兵として初めてスイス人傭兵を採用している。スイス人傭兵というものが存在しなくなった現在でも、教皇の衛兵は伝統的にスイス人が務めている。

この頃、スイスの軍勢は無敵を誇り、支配地域の拡張を目指してイタリア戦争などの周辺地域の紛争に干渉したが、1515年のマリニャーノの戦いでフランソワ1世率いるフランス軍に大敗を喫したことで、拡張政策の放棄を余儀なくされた。

スイスの地図

拡大地図を表示