世界史

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英蘭戦争

英蘭戦争は17世紀後半の3次にわたるイングランドとオランダの戦争。海戦が中心で双方とも相手方の本土に侵攻することはなく、いずれも中途半端な結果に終わった。しかし、一連の戦争でオランダの国力は疲弊した。


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17世紀始めには英蘭両国はカトリックのスペイン・ポルトガル勢力に対して協力関係にあったが、オランダ東インド会社の実力がイギリス東インド会社を上回り、1623年のアンボイナ事件を契機に、イングランドは東南アジアや東アジアから撤退せざるを得なくなった。香料貿易を独占したオランダにはアジアの富が流入し、イングランドでは反オランダ感情が高まった。

第一次英蘭戦争
航海法をきっかけに1652年から1654年にかけて、クロムウェルのイングランド共和国とネーデルラント連邦共和国(オランダ)の間で戦われた。

第二次英蘭戦争
1665年から1667年にかけてチャールズ2世を戴く王政復古後のイングランド王国と、デ・ウィッテの率いるネーデルラント連邦共和国(オランダ)の間で展開された。

第三次英蘭戦争
フランスのルイ14世と盟約を結んだチャールズ2世が1672年から1674年にかけて、フランスの始めたオランダ戦争に協力する形で始まった。オランダ戦争の局地戦とも言える。

イングランドは3次にわたってオランダと開戦し、オランダ経済に大打撃を与えたが、皮肉にも1688年の名誉革命により、かつて敵対したオランダ統領ウィレムをイングランド王ウィリアム3世として迎えることとなる。名誉革命は国際関係からみれば、クロムウェルが提唱した英蘭合邦案の実現と言えなくもない。

サルフの戦い

サルフの戦いは、1619年にヌルハチ率いる後金(のちの清)が明の後金討伐軍を破った戦い。全軍を4つに分けて後金を包囲攻撃した明軍に対し、ヌルハチは各軍を各個撃破することにより大軍を打ち破った。特に最初に行われた大きな戦闘が撫順東方のサルフ(薩爾滸)で行われたため、この戦役全体がサルフの戦いと呼ばれる。明軍は4万5千人もの死傷者を出し大敗した。

建国間もない後金の存亡をかけた決戦で、この戦いに勝利したことが後金興起の第一歩となった。

1619年、10万の明軍は全軍を4つの軍団に分け、四路に分かれてヌルハチの本拠地ヘトゥアラ(興京)を包み込むように進撃を開始した。北路は開原総兵官の馬林がイェヘの援軍とともに開原から、西路は山海関総兵官の杜松が瀋陽から出発し、両軍はヘトゥアラと撫順の中間にあるサルフで合流してヘトゥアラを目指す計画とした。また南路からは遼東総兵官の李如柏が遼陽から清河を越え、東南路からは遼陽総兵官の劉挺が朝鮮軍を帯同して丹東付近から北上して、それぞれ西南と東南から直接ヘトゥアラに迫った。総司令官の楊鎬は予備兵力とともに後方の審陽で待機し、全軍の総指揮を取った。

サルフの戦い

これに対してヌルハチはヘトゥアラで全明軍と一手に戦うことを避けて各個撃破をはかることにし、まずヘトゥアラ北方において最初の攻防の拠点となるサルフ山およびその川の対岸にあるジャイフィアン山に明軍を足止めさせるため築城を開始した。

サルフを守る明軍は、敵軍はキリンハダの守備隊と合流してジャイフィアンに向かうとみていたためにまったく奇襲を受けたかたちになり、混乱と暗さのために火器をほとんど生かせないまま接近戦に持ち込まれて壊滅した。後方部隊の壊滅によりジャイフィアンの明軍主力は動揺し、牽制の2旗とキリンハダの守備隊、そしてサルフから転進してきた後金軍主力6旗の全軍による三方向からの突撃の前になすすべもなく壊滅し、杜松以下主だった将領が戦死した。

シャンギャンハダの戦い

一方、杜松の西路軍との合流を目指して北からサルフに向かっていた馬林の軍は、杜松が戦死したときサルフの北にあるシャンギャンハダという地点にいた。3月2日、杜松軍壊滅の情報を得た馬林軍はシャンギャンハダに後退して塹壕を掘り、火砲を並べて後金軍の攻撃に備えた。

宗顔の陣を攻撃した後金軍は、下馬した兵によって敵の戦車を排除した後、騎兵の突撃を行い、潘宗顔も壊走させた。馬林・潘宗顔の敗報を聞いたイェヘの援軍は後金軍との戦いを放棄し、自国に撤退した。

アブダリ・フチャの戦い

北路・西路の敗報を受けた楊鎬は、生き残っていた李如柏と劉挺の両軍に進撃停止を急報した。李如柏の軍はもともと緩慢な進軍を続けていたためすぐに退却したが、劉挺軍はすでに敵地の奥深くに入り込んでおり、進撃停止の命令も届かなかった。

明軍も壊滅的打撃を受け、夜に入ると朝鮮軍の中営(本隊)5000のみが孤立して残された。後金は朝鮮軍に対しては降伏を勧告し、観念した姜弘立は朝鮮軍の残兵を率いてヌルハチに投降した。朝鮮軍の投降を知った明軍の生き残りの将校は自殺し、東南路軍は消滅した。