ゴールド・ラッシュ
1851年、エドワード・ハーグレイヴス (Edward Hammond Hargraves) がシドニーの西北西約260km地点のルイス・ポンズ・クリークで金鉱を発見した。これを聞き付けた人々が大挙して押し寄せたのを切っ掛けに、アメリカに次ぐゴールド・ラッシュが発生した。
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大量の労働者が金鉱地へ流出したメルボルンでは市の機能が麻痺しかけ、対策として「市の周辺で金鉱を発見した者に賞金を与える」と布告したほどであった。この結果、バララット、ベンディゴーなどの金鉱が新たに発見され、人々の採掘熱はさらに高まった。
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国家体制の未成熟なオーストラリアで発生したゴールド・ラッシュが与えた影響は、アメリカのそれに比べて遥かに大きかった。黄金の魅力に憑かれた人々が世界中から集まり、1851年時点で437,665人であった人口は、1861年には1,168,149人にまで激増した。中でも、最大級の外国人集団となった中国人の存在は欧米出身者らには脅威と映り、排斥運動に発展した。
1854年、採掘者に対して重い採掘料を課すなどの規制に反発した鉱夫約150名が、ユーリーカ砦 (Eureka Stockade) に籠城した。12月、警察や兵が砦を攻撃し、約15分で反乱は鎮圧されたが、首謀者のほとんどは放免され、彼らの要求(普通選挙権の付与など)はほぼ全面的に認められた。
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大量の労働者が金鉱地へ流出したメルボルンでは市の機能が麻痺しかけ、対策として「市の周辺で金鉱を発見した者に賞金を与える」と布告したほどであった。この結果、バララット、ベンディゴーなどの金鉱が新たに発見され、人々の採掘熱はさらに高まった。
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国家体制の未成熟なオーストラリアで発生したゴールド・ラッシュが与えた影響は、アメリカのそれに比べて遥かに大きかった。黄金の魅力に憑かれた人々が世界中から集まり、1851年時点で437,665人であった人口は、1861年には1,168,149人にまで激増した。中でも、最大級の外国人集団となった中国人の存在は欧米出身者らには脅威と映り、排斥運動に発展した。
1854年、採掘者に対して重い採掘料を課すなどの規制に反発した鉱夫約150名が、ユーリーカ砦 (Eureka Stockade) に籠城した。12月、警察や兵が砦を攻撃し、約15分で反乱は鎮圧されたが、首謀者のほとんどは放免され、彼らの要求(普通選挙権の付与など)はほぼ全面的に認められた。
ナポレオン戦争(イタリア)
18世紀のイタリアの政治的状況は、16世紀の時とほとんど同じであった。唯一の違いは干渉してくる外国勢力がオーストリア帝国に変わったことだった。
イタリア
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1768年ジェノヴァ共和国は、独立戦争が続くコルシカ島をフランスに譲渡した。その翌年にコルシカ島で生まれたナポレオン・ボナパルトは、1796年にフランスの将軍としてイタリアに侵入した。 当時ミラノ公国はオーストリア帝国の属国と化していた。また、エミーリアやロマーニャなどの教皇領北部も実質的には領主により支配されていた。それらの国の住民は圧政に耐えかねてナポレオンを解放者として受入れたため、戦局はナポレオン優位に動いた。
コルシカ島
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この時中立という立場を取りつつもオーストリア軍に自国の領土の通過を許したヴェネツィア共和国は、ナポレオンの反感を買ってしまう。ヴェネツィアは弱体化も激しく目立った抵抗も出来ずにナポレオン軍の侵略を許し、オーストリアに譲渡されてしまう。
1797年には、北イタリアの占領していた地域をまとめてチザルピーナ共和国を建国し、1798年には教皇領のローマもフランスの手に落ちる。
1805年、ナポレオンはオーストリアから奪ったヴェネト地方、エトルリア王国などを統合し自身を大統領とするイタリア共和国を建国し、皇帝になるとともに共和国はイタリア王国となった。残るナポリ王国も妹婿のミュラに委ねており、イタリア半島はナポレオンによりほぼ統一されたことになる。
イタリア
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1768年ジェノヴァ共和国は、独立戦争が続くコルシカ島をフランスに譲渡した。その翌年にコルシカ島で生まれたナポレオン・ボナパルトは、1796年にフランスの将軍としてイタリアに侵入した。 当時ミラノ公国はオーストリア帝国の属国と化していた。また、エミーリアやロマーニャなどの教皇領北部も実質的には領主により支配されていた。それらの国の住民は圧政に耐えかねてナポレオンを解放者として受入れたため、戦局はナポレオン優位に動いた。
コルシカ島
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この時中立という立場を取りつつもオーストリア軍に自国の領土の通過を許したヴェネツィア共和国は、ナポレオンの反感を買ってしまう。ヴェネツィアは弱体化も激しく目立った抵抗も出来ずにナポレオン軍の侵略を許し、オーストリアに譲渡されてしまう。
1797年には、北イタリアの占領していた地域をまとめてチザルピーナ共和国を建国し、1798年には教皇領のローマもフランスの手に落ちる。
1805年、ナポレオンはオーストリアから奪ったヴェネト地方、エトルリア王国などを統合し自身を大統領とするイタリア共和国を建国し、皇帝になるとともに共和国はイタリア王国となった。残るナポリ王国も妹婿のミュラに委ねており、イタリア半島はナポレオンによりほぼ統一されたことになる。
パラグアイ戦争
パラグアイ戦争とは、1864年から1870年ごろにパラグアイと、アルゼンチン・ブラジル・ウルグアイの三国同盟軍との間で行なわれた戦争。ラテンアメリカの歴史の中で最も凄惨な武力衝突となった。三国同盟戦争、ロペス戦争とも呼ばれる。
戦の直接のきっかけは、当時ブラジル・アルゼンチンの緩衝国であったウルグアイの政変に、パラグアイの独裁者であり領土拡張主義者であったフランシスコ・ソラーノ・ロペスが介入したことによるが、ラテンアメリカの植民地支配の歴史やこの地域へのイギリスの経済的関心も影響しているとも言われる。
戦争は1864年11月にパラグアイがブラジルに侵攻することにより開始された。6,000の兵力で侵攻したパラグアイ軍は、翌12月にはブラジルの要衝コインブラやコルンバの占領に成功する。1865年3月に入ると、パラグアイは1万の兵力によりアルゼンチンにも侵攻を開始した。翌4月にはコリエンテスを占領する。6月にはブラジル・リオグランデドスル州を経由し、ウルグアイに迫った。
しかし、6月11日にパラナ川で行われた水上戦闘において、パラグアイ艦隊はブラジル艦隊に敗北を喫した。これにより、ウルグアイに迫ったパラグアイは包囲され、降伏するに至った。パラグアイ軍は主力を国内に撤退させるに至った。
1866年には、三国同盟軍がパラグアイ国内へ侵攻を開始した。パラグアイ川とパラナ川の合流点にあるパソデリアは、4月に同盟軍が占領した。5月にはパソデリア北方において、パラグアイ軍25,000と同盟軍45,000による大規模な戦闘が行われ、パラグアイ軍が壊滅的な打撃を受けた。
その後も同盟軍はパソデリア北方におけるパラグアイの要塞を攻撃し、1867年7月にはウマイタ要塞を陥落させるに至った。これによりパラグアイ川の航行が可能となり、同盟軍は川沿いに急速に進撃を開始した。軍主力が壊滅しているパラグアイ軍は、老人・子供・女性を動員し、何度も防戦を行ったが、兵力不足により敗北が続いた。1869年1月には同盟軍が首都アスンシオンを占領している。
パラグアイの指導者・ロペスは、市民とともに首都を脱出し北上した。この集団は、老人・女性・子供も多いものであった。集団は戦闘を行いつつ北上を続けたが、1870年3月に同盟軍に包囲され、ロペスは戦死し、戦争は終結した。
戦争はパラグアイの完全な敗北に終わった。政府軍同士による戦いが終結した後も長期に渡るゲリラ戦が続き、その結果軍人市民問わず多数のパラグアイ人が死亡した。ある推測によると、戦争および戦争中の疫病により、当時の男性人口の9割にあたる120万人のパラグアイ人が死んだとされる。より正確とされる推計では、開戦前にいた50万人ほどのパラグアイ人のうち、約30万人が死んだとされている。
終戦後、パラグアイでは壊滅的に混乱した状況からの立ち直りと、成人男子の殆どを失ったことによる人口分布のアンバランスの解消に、半世紀と言われる年月を費やした。一方、ブラジルは奴隷制度の廃止と軍主導の政治体制へと向かった。アルゼンチンは近代化への道をたどり、ウルグアイにとっては、ブラジル・アルゼンチンによる内政介入から脱するきっかけとなった。
戦の直接のきっかけは、当時ブラジル・アルゼンチンの緩衝国であったウルグアイの政変に、パラグアイの独裁者であり領土拡張主義者であったフランシスコ・ソラーノ・ロペスが介入したことによるが、ラテンアメリカの植民地支配の歴史やこの地域へのイギリスの経済的関心も影響しているとも言われる。
戦争は1864年11月にパラグアイがブラジルに侵攻することにより開始された。6,000の兵力で侵攻したパラグアイ軍は、翌12月にはブラジルの要衝コインブラやコルンバの占領に成功する。1865年3月に入ると、パラグアイは1万の兵力によりアルゼンチンにも侵攻を開始した。翌4月にはコリエンテスを占領する。6月にはブラジル・リオグランデドスル州を経由し、ウルグアイに迫った。
しかし、6月11日にパラナ川で行われた水上戦闘において、パラグアイ艦隊はブラジル艦隊に敗北を喫した。これにより、ウルグアイに迫ったパラグアイは包囲され、降伏するに至った。パラグアイ軍は主力を国内に撤退させるに至った。
1866年には、三国同盟軍がパラグアイ国内へ侵攻を開始した。パラグアイ川とパラナ川の合流点にあるパソデリアは、4月に同盟軍が占領した。5月にはパソデリア北方において、パラグアイ軍25,000と同盟軍45,000による大規模な戦闘が行われ、パラグアイ軍が壊滅的な打撃を受けた。
その後も同盟軍はパソデリア北方におけるパラグアイの要塞を攻撃し、1867年7月にはウマイタ要塞を陥落させるに至った。これによりパラグアイ川の航行が可能となり、同盟軍は川沿いに急速に進撃を開始した。軍主力が壊滅しているパラグアイ軍は、老人・子供・女性を動員し、何度も防戦を行ったが、兵力不足により敗北が続いた。1869年1月には同盟軍が首都アスンシオンを占領している。
パラグアイの指導者・ロペスは、市民とともに首都を脱出し北上した。この集団は、老人・女性・子供も多いものであった。集団は戦闘を行いつつ北上を続けたが、1870年3月に同盟軍に包囲され、ロペスは戦死し、戦争は終結した。
戦争はパラグアイの完全な敗北に終わった。政府軍同士による戦いが終結した後も長期に渡るゲリラ戦が続き、その結果軍人市民問わず多数のパラグアイ人が死亡した。ある推測によると、戦争および戦争中の疫病により、当時の男性人口の9割にあたる120万人のパラグアイ人が死んだとされる。より正確とされる推計では、開戦前にいた50万人ほどのパラグアイ人のうち、約30万人が死んだとされている。
終戦後、パラグアイでは壊滅的に混乱した状況からの立ち直りと、成人男子の殆どを失ったことによる人口分布のアンバランスの解消に、半世紀と言われる年月を費やした。一方、ブラジルは奴隷制度の廃止と軍主導の政治体制へと向かった。アルゼンチンは近代化への道をたどり、ウルグアイにとっては、ブラジル・アルゼンチンによる内政介入から脱するきっかけとなった。