黄巣の乱
黄巣の乱の指導者は黄巣という。唐に対して反乱を起こし、事実上唐を滅亡させた。曹州・冤句県(山東省・河南省の境目)出身。
黄巣は若い頃は官吏を目指していたが科挙に何度も落第し、諦めた後は私塩の密売に関っていた。874年、同じ塩の密売人であった王仙芝が挙兵するとこれに参加し、反乱軍の重鎮となった。塩の専売は当時の国家にとって非常に重要な財源で、財政が悪化すると値が引き上げられる。これに対し塩の密売業者が安い値段で売っても巨額の利益が上がり、さらに安く売ってもらった民衆からは感謝されて、政府からの取締りが来ても民衆が庇ってくれる事が多かった。既に傾いていた唐は塩の値段を吊り上げ、その事で各地に黄巣達と同じような密売業者がたくさんいて、黄巣達の反乱は瞬く間に規模が大きくなった。
途中で黄巣と王仙芝は分裂し、黄巣軍は各地を転戦し、878年に広州を落とし、880年には洛陽・長安を相次いで陥落させ、僖宗は蜀へと逃げた。長安に入った黄巣は国号を斉として、皇帝と称号した。だが、黄巣軍には政治を取れるものはおらず、無闇に略奪を繰り返し、また黄巣自身も唐の高官を大量に殺害するなど悪政が目立ち、民心は次第に離れて行った。この中には江南に逃亡した学者として著名な皮日休もいた。
この状態に見切りを付けた黄巣軍の幹部の朱温は蜀の唐政府に寝返り、さらに突厥沙陀部の李克用も参戦したために黄巣軍は長安を追われた。その後何とか頽勢を挽回しようと試みたが、884年の夏5月に中牟県の北にある王満渡の決戦に敗れた。同時に部下の尚譲の裏切りで黄巣は瑕丘を経て、故郷に近い泰山付近の狼虎谷に逃亡した。そこで、黄巣は甥の林言に介錯させて自害した。その後も小規模の乱が続いたが間もなく鎮圧された。この乱は初めは王仙芝が起こした事項だが、黄巣の名を取って黄巣の乱と呼ばれる。
この乱により全国王朝としての唐は実質上滅び、春秋時代の周のように一地方政権へと下落した。この後、黄巣軍から出てきた朱温が907年には唐を滅ぼすことになる。
黄巣は若い頃は官吏を目指していたが科挙に何度も落第し、諦めた後は私塩の密売に関っていた。874年、同じ塩の密売人であった王仙芝が挙兵するとこれに参加し、反乱軍の重鎮となった。塩の専売は当時の国家にとって非常に重要な財源で、財政が悪化すると値が引き上げられる。これに対し塩の密売業者が安い値段で売っても巨額の利益が上がり、さらに安く売ってもらった民衆からは感謝されて、政府からの取締りが来ても民衆が庇ってくれる事が多かった。既に傾いていた唐は塩の値段を吊り上げ、その事で各地に黄巣達と同じような密売業者がたくさんいて、黄巣達の反乱は瞬く間に規模が大きくなった。
途中で黄巣と王仙芝は分裂し、黄巣軍は各地を転戦し、878年に広州を落とし、880年には洛陽・長安を相次いで陥落させ、僖宗は蜀へと逃げた。長安に入った黄巣は国号を斉として、皇帝と称号した。だが、黄巣軍には政治を取れるものはおらず、無闇に略奪を繰り返し、また黄巣自身も唐の高官を大量に殺害するなど悪政が目立ち、民心は次第に離れて行った。この中には江南に逃亡した学者として著名な皮日休もいた。
この状態に見切りを付けた黄巣軍の幹部の朱温は蜀の唐政府に寝返り、さらに突厥沙陀部の李克用も参戦したために黄巣軍は長安を追われた。その後何とか頽勢を挽回しようと試みたが、884年の夏5月に中牟県の北にある王満渡の決戦に敗れた。同時に部下の尚譲の裏切りで黄巣は瑕丘を経て、故郷に近い泰山付近の狼虎谷に逃亡した。そこで、黄巣は甥の林言に介錯させて自害した。その後も小規模の乱が続いたが間もなく鎮圧された。この乱は初めは王仙芝が起こした事項だが、黄巣の名を取って黄巣の乱と呼ばれる。
この乱により全国王朝としての唐は実質上滅び、春秋時代の周のように一地方政権へと下落した。この後、黄巣軍から出てきた朱温が907年には唐を滅ぼすことになる。
一条鞭法
一条鞭法は、中国の税制。丁税と地税を一括して銀納する税制であり、明王朝の後期には中国各地で施行された。
16世紀に入り、海禁政策が弛緩してアメリカ大陸や日本から多くの銀(メキシコ銀、日本銀)が流入したことが背景にある。16世紀中ごろには既に江南などで実施されており、16世紀末の万暦帝期において、宰相張居正のもとで全国に広まった。複雑化していた税制を、丁税(人頭税)と地税にまとめ、一括して銀で納税することを定めたものである。のちの清代における地丁銀制に影響を与えた。
世界史上における意義としては、フランクら一部の歴史家によれば、一条鞭法の導入は近代以前のユーラシアで最大の経済力を持つ中華帝国における通貨としての銀の重要性を従来以上に高め、東アジア全域で銀流通を活発化した。そのため、南北アメリカ大陸の膨大な銀生産を独占する西ヨーロッパ諸国の影響力が強まり、ヨーロッパによる世界制覇の遠因となったとされる。
地丁銀制は、中国の税制。 明代以来の一条鞭法に代わって実施された清代の税制。地銀(田畑の所有に対して課された税。地税とも言う)の中に丁銀(人丁、すなわち16歳?59歳の成年男子に課された人頭税。丁税とも言う)を繰り込み、一括して銀納させた。
16世紀に入り、海禁政策が弛緩してアメリカ大陸や日本から多くの銀(メキシコ銀、日本銀)が流入したことが背景にある。16世紀中ごろには既に江南などで実施されており、16世紀末の万暦帝期において、宰相張居正のもとで全国に広まった。複雑化していた税制を、丁税(人頭税)と地税にまとめ、一括して銀で納税することを定めたものである。のちの清代における地丁銀制に影響を与えた。
世界史上における意義としては、フランクら一部の歴史家によれば、一条鞭法の導入は近代以前のユーラシアで最大の経済力を持つ中華帝国における通貨としての銀の重要性を従来以上に高め、東アジア全域で銀流通を活発化した。そのため、南北アメリカ大陸の膨大な銀生産を独占する西ヨーロッパ諸国の影響力が強まり、ヨーロッパによる世界制覇の遠因となったとされる。
地丁銀制は、中国の税制。 明代以来の一条鞭法に代わって実施された清代の税制。地銀(田畑の所有に対して課された税。地税とも言う)の中に丁銀(人丁、すなわち16歳?59歳の成年男子に課された人頭税。丁税とも言う)を繰り込み、一括して銀納させた。
黄巣の乱
黄巣は中国唐代の反乱指導者。唐に対し、反乱を起こし、事実上唐を滅亡させた。曹州・冤句県(山東省・河南省の境目)出身。
拡大地図を表示
黄巣は若い頃は官吏を目指していたが科挙に何度も落第し、諦めた後は私塩の密売に関っていた。874年、同じ塩の密売人であった王仙芝が挙兵するとこれに参加し、反乱軍の重鎮となった。塩の専売は当時の国家にとって非常に重要な財源で、財政が悪化すると値が引き上げられる。これに対し塩の密売業者が安い値段で売っても巨額の利益が上がり、さらに安く売ってもらった民衆からは感謝されて、政府からの取締りが来ても民衆が庇ってくれる事が多かった。既に傾いていた唐は塩の値段を吊り上げ、その事で各地に黄巣達と同じような密売業者(政府は塩賊と呼んだ)がたくさんいて、黄巣達の反乱は瞬く間に規模が大きくなった。
途中で黄巣と王仙芝は分裂し、黄巣軍は各地を転戦し、878年に広州を落とし、880年には洛陽・長安を相次いで陥落させ、僖宗は蜀へと逃げた。長安に入った黄巣は国号を斉として、皇帝と称号した。だが、黄巣軍には政治を取れるものはおらず、無闇に略奪を繰り返し、また黄巣自身も唐の高官を大量に殺害するなど悪政が目立ち、民心は次第に離れて行った。この中には江南に逃亡した学者として著名な皮日休もいた。
この状態に見切りを付けた黄巣軍の幹部の朱温は蜀の唐政府に寝返り、さらに突厥沙陀部の李克用も参戦したために黄巣軍は長安を追われた。その後何とか頽勢を挽回しようと試みたが、884年の夏5月に中牟県の北にある王満渡の決戦に敗れた。同時に部下の尚譲の裏切りで黄巣は瑕丘を経て、故郷に近い泰山付近の狼虎谷に逃亡した。そこで、黄巣は甥の林言に介錯させて自害した(林言は叔父の首級を唐将の時溥の所に持参する途中で、沙陀部の軍隊に殺害され、その首級を奪われたという)。その後も小規模の乱が続いたが間もなく鎮圧された。この乱は初めは王仙芝が起こした事項だが、黄巣の名を取って黄巣の乱と呼ばれる。
この乱により全国王朝としての唐は実質上滅び、春秋時代の周のように一地方政権へと下落した。この後、黄巣軍から出てきた朱温が907年には唐を滅ぼすことになる。
拡大地図を表示
黄巣は若い頃は官吏を目指していたが科挙に何度も落第し、諦めた後は私塩の密売に関っていた。874年、同じ塩の密売人であった王仙芝が挙兵するとこれに参加し、反乱軍の重鎮となった。塩の専売は当時の国家にとって非常に重要な財源で、財政が悪化すると値が引き上げられる。これに対し塩の密売業者が安い値段で売っても巨額の利益が上がり、さらに安く売ってもらった民衆からは感謝されて、政府からの取締りが来ても民衆が庇ってくれる事が多かった。既に傾いていた唐は塩の値段を吊り上げ、その事で各地に黄巣達と同じような密売業者(政府は塩賊と呼んだ)がたくさんいて、黄巣達の反乱は瞬く間に規模が大きくなった。
途中で黄巣と王仙芝は分裂し、黄巣軍は各地を転戦し、878年に広州を落とし、880年には洛陽・長安を相次いで陥落させ、僖宗は蜀へと逃げた。長安に入った黄巣は国号を斉として、皇帝と称号した。だが、黄巣軍には政治を取れるものはおらず、無闇に略奪を繰り返し、また黄巣自身も唐の高官を大量に殺害するなど悪政が目立ち、民心は次第に離れて行った。この中には江南に逃亡した学者として著名な皮日休もいた。
この状態に見切りを付けた黄巣軍の幹部の朱温は蜀の唐政府に寝返り、さらに突厥沙陀部の李克用も参戦したために黄巣軍は長安を追われた。その後何とか頽勢を挽回しようと試みたが、884年の夏5月に中牟県の北にある王満渡の決戦に敗れた。同時に部下の尚譲の裏切りで黄巣は瑕丘を経て、故郷に近い泰山付近の狼虎谷に逃亡した。そこで、黄巣は甥の林言に介錯させて自害した(林言は叔父の首級を唐将の時溥の所に持参する途中で、沙陀部の軍隊に殺害され、その首級を奪われたという)。その後も小規模の乱が続いたが間もなく鎮圧された。この乱は初めは王仙芝が起こした事項だが、黄巣の名を取って黄巣の乱と呼ばれる。
この乱により全国王朝としての唐は実質上滅び、春秋時代の周のように一地方政権へと下落した。この後、黄巣軍から出てきた朱温が907年には唐を滅ぼすことになる。
黄河文明
黄河文明は黄河の中・下流域で栄えた古代文明。歴史の教科書には世界四大文明のうちのひとつとして挙げられていることが多いが、現在は長江文明ほかさまざまな文明が発見されているため、四大文明に黄河文明のみを取り上げる手法はもはや古くなっている。新石器時代の仰韶(ヤンシャオ)文化から竜山(ロンシャン)文化をへて、殷・周の青銅器文化に発展していった。
中国は最も早く文明の現れた地域の一つで、その年代は大体今から7000年前くらいまで遡ると考えられている。
黄河文明を地域別・系統別に分類されたが、その中でも代表とされるのが仰韶文化(ぎょうしょう・ヤンシャオ)・竜山文化(りゅうざん・ロンシャン)の二つ。
仰韶文化は紀元前5000年ごろに始まったもので、黄河の上流域、中国の陝西省・山西省あたりで栄えた。その特徴として綺麗に彩色された土器が使われていたので、このようなものを彩陶文化と呼ぶ。他にも彩陶文化はあるので、仰韶文化は彩陶文化の中の一つである。ちなみに仰韶と言うのは土器が出てきた村の名前。
もう一つの竜山文化は仰韶文化が終わった後の紀元前2500年ごろに始まったもので、特徴は黒い土器。そこから、このようなものを黒陶文化と呼ぶ。この頃には高温で焼く事が出来るようになったために薄手で硬い土器が作られていた。この文化の終わりごろになると銅器も作られるようになった。
ただし竜山文化と言うのは二つあり、山東省で発掘されたものを山東竜山文化、陝西省あたりで発掘されたものを中原竜山文化と呼ぶ。このうち中原の方の竜山文化は仰韶文化を受け継いだもので、こちらには灰色の土器が多いのが特徴。そして山東の方の竜山文化は別の大汶口文化と言うものを受け継いだもので、こちらは黒の土器が多い。
中国は最も早く文明の現れた地域の一つで、その年代は大体今から7000年前くらいまで遡ると考えられている。
黄河文明を地域別・系統別に分類されたが、その中でも代表とされるのが仰韶文化(ぎょうしょう・ヤンシャオ)・竜山文化(りゅうざん・ロンシャン)の二つ。
仰韶文化は紀元前5000年ごろに始まったもので、黄河の上流域、中国の陝西省・山西省あたりで栄えた。その特徴として綺麗に彩色された土器が使われていたので、このようなものを彩陶文化と呼ぶ。他にも彩陶文化はあるので、仰韶文化は彩陶文化の中の一つである。ちなみに仰韶と言うのは土器が出てきた村の名前。
もう一つの竜山文化は仰韶文化が終わった後の紀元前2500年ごろに始まったもので、特徴は黒い土器。そこから、このようなものを黒陶文化と呼ぶ。この頃には高温で焼く事が出来るようになったために薄手で硬い土器が作られていた。この文化の終わりごろになると銅器も作られるようになった。
ただし竜山文化と言うのは二つあり、山東省で発掘されたものを山東竜山文化、陝西省あたりで発掘されたものを中原竜山文化と呼ぶ。このうち中原の方の竜山文化は仰韶文化を受け継いだもので、こちらには灰色の土器が多いのが特徴。そして山東の方の竜山文化は別の大汶口文化と言うものを受け継いだもので、こちらは黒の土器が多い。
