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<title>世界史</title>
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<description>世界史を地図を使って紹介</description>
<language>ja</language>
<copyright>Copyright 2008</copyright>
<lastBuildDate>Mon, 28 Apr 2008 15:56:58 +0900</lastBuildDate>

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<title>アンコール・ワット</title>
<description><![CDATA[<strong>アンコールワット</strong>は、カンボジアにあるアンコール遺跡の一つで遺跡群を代表する寺院建築。アンコールは王都、ワットは寺院を意味する。大伽藍と美しい彫刻からクメール建築の傑作と称えられ、カンボジア国旗の中央にも同国の象徴として描かれている。
<br /><br />
<iframe width="500" height="350" frameborder="0" scrolling="no" marginheight="0" marginwidth="0" src="http://maps.google.co.jp/maps/ms?hl=ja&amp;ie=UTF8&amp;msa=0&amp;t=h&amp;msid=113984595681420237076.00044be97b1e88dcec8ce&amp;s=AARTsJpYCiQGIBxlmCWmavgMuUV2JNsm_g&amp;ll=13.411411,103.865433&amp;spn=0.029222,0.042915&amp;z=14&amp;output=embed"></iframe><br /><small><a href="http://maps.google.co.jp/maps/ms?hl=ja&amp;ie=UTF8&amp;msa=0&amp;t=h&amp;msid=113984595681420237076.00044be97b1e88dcec8ce&amp;ll=13.411411,103.865433&amp;spn=0.029222,0.042915&amp;z=14&amp;source=embed" style="color:#0000FF;text-align:left">大きな地図で見る</a></small>
<br /><br />
12世紀前半、アンコール王朝のスーリヤヴァルマン2世によって、ヒンドゥー教寺院として三十年余の歳月を費やし建立される。1431年頃にアンコールが放棄されプノンペンに王都が遷ると、一時は忘れ去られるが再発見され、アンチェン1世は1546年から1564年の間に未完成であった第一回廊北面とその付近に彫刻を施した。孫のソタ?王は仏教寺院へと改修し、本堂に安置されていたヴィシュヌ神を四体の仏像に置き換えたという。
<br /><br />
1586年、ポルトガル人のアントニオ・ダ・マグダレーナが西欧人として初めて参拝し、伽藍に対する賛辞を残している。1632年、日本人の森本右近太夫一房が参拝した際に壁面へ残した墨書には、「御堂を志し数千里の海上を渡り」「ここに仏四体を奉るものなり」とあり、日本にもこの仏教寺院は知られていた事が伺える。1860年、寺院を訪れたフランス人のアンリ・ムーオの紹介よって西欧と世界に広く知らされた。
<br /><br />
1887年、カンボジアが仏領インドシナとされ、1907年にシャムからアンコール付近の領土を奪回すると、フランス極東学院が寺院の保存修復を行った。1972年、カンボジア内戦によって極東学院はカンボジアを離れ、寺院はクメール・ルージュによって破壊された。この時に多くの奉納仏は首を撥ねられ砕かれ、敷石にされたという。
<br /><br />
<div align="center"><img src="http://farm1.static.flickr.com/93/254209023_b90c7a7666.jpg?v=0" alt="朝日が昇るアンコールワット" style="border: 1px solid #ddd"></div>
<br /><br />
1979年にクメール・ルージュが政権を追われると、彼らはこの地に落ち延びて来た。アンコール・ワットは純粋に宗教施設でありながら、その造りは城郭と言って良く、陣地を置くには最適だった。周囲を堀と城壁に囲まれ、中央には楼閣があって周りを見下ろすことが出来る。また、カンボジアにとって最大の文化遺産であるから、攻める側も重火器を使用するのはためらわれた。当時置かれた砲台の跡が最近まで確認できた（現在は修復されている）。
<br /><br />
だがこれが、遺跡自身には災いした。クメール・ルージュは共産主義勢力であり、祠堂の各所に置かれた仏像がさらなる破壊を受けた。内戦で受けた弾痕も、修復されつつあるが一部にはまだ残っている。
<br /><br />
カンボジア国旗内戦が収まりつつある1992年にはアンコール遺跡として世界遺産に登録され、1993年にはこの寺院の祠堂を描いたカンボジア国旗が制定された。今はカンボジアの安定に伴い、各国が協力して修復を行っており、周辺に遺された地雷の撤去も進んでいる。世界各国から参拝客と観光客を多く集め、また仏教僧侶が祈りを捧げている。
<br /><br />
この寺は西を正面としており、午前に写真を撮ると逆光になるため、午後の観光が好まれる。日の出が美しく、早朝に訪れる人も多い。正面からは年2度中央の祠堂からの日の出を見ることができる。第三回廊への13メートルの石段は急である。登る事を諦め、ただ第三回廊を見上げ続ける人々も見られる。
<br /><br />
<div align="center"><img src="http://farm2.static.flickr.com/1134/1204101471_a83adfb1e6.jpg?v=0" alt="Angkor Watt " style="border: 1px solid #ddd"></div>]]></description>
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<pubDate>Mon, 28 Apr 2008 15:56:58 +0900</pubDate>
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<title>大北方戦争</title>
<description><![CDATA[<strong>大北方戦争</strong>は、ロシア帝国、デンマーク-ノルウェーそしてザクセン-ポーランドの同盟諸国と、スウェーデンとの間で、1700年から1721年の21年間にわたって行われた戦争である。
<br /><br />
<iframe width="500" height="450" frameborder="0" scrolling="no" marginheight="0" marginwidth="0" src="http://maps.google.co.jp/maps?f=q&amp;hl=ja&amp;geocode=&amp;q=%E3%82%B9%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%87%E3%83%B3&amp;sll=60.128161,18.643501&amp;sspn=20.171916,63.457031&amp;ie=UTF8&amp;s=AARTsJo-Bw76h-d2VlXWhnL97MTGaOLQ7w&amp;ll=56.46249,26.367188&amp;spn=44.821672,87.890625&amp;z=3&amp;output=embed"></iframe><br /><small><a href="http://maps.google.co.jp/maps?f=q&amp;hl=ja&amp;geocode=&amp;q=%E3%82%B9%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%87%E3%83%B3&amp;sll=60.128161,18.643501&amp;sspn=20.171916,63.457031&amp;ie=UTF8&amp;ll=56.46249,26.367188&amp;spn=44.821672,87.890625&amp;z=3&amp;source=embed" style="color:#0000FF;text-align:left">大きな地図で見る</a></small>
<br /><br />
戦争は同盟側によるスウェーデンへの連携攻撃で始まったが、戦争前期はスウェーデンが圧倒した。1706年までの戦闘の殆どに勝利し、ポーランド王を廃位させ、傀儡王を立てた。デンマークもロシアも直接戦闘を避け、一時はスウェーデンが覇権を握ったと思われたが、しかしロシアは地の利を味方につけて焦土作戦を展開、1709年のポルタヴァの戦いで形勢を逆転した。
<br /><br />
その後反スウェーデン陣営が続々反撃に出て、1721年のニスタット条約とストックホルム条約の締結によって終了した。この戦争の結果、ロシアはスウェーデンのバルト海における覇権を奪い取り、ヨーロッパにおける列強の一員となった。 またロシアは、この戦争で獲得した地に新都サンクトペテルブルクを建設した。
<br /><br />
この戦争は、ロシア皇帝ピョートル1世とスウェーデン王カール12世の事実上の一騎打ちであった。大北方戦争は、後に文化人や軍人の研究材料として取り上げられている。ヴォルテールやクラウゼヴィッツによるものが有名である。
<br /><br />
画像：<a href="http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/0/04/Stora_nordiska_kriget.jpg">Stora nordiska kriget</a>
<br /><br />
画像：<a href="http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/cc/Victory_at_Narva.jpg">Victory at Narva.</a>]]></description>
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<pubDate>Sat, 22 Mar 2008 05:03:28 +0900</pubDate>
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<title>アメリカ同時多発テロ事件</title>
<description><![CDATA[アメリカ同時多発テロ事件は、2001年9月11日にアメリカ合衆国で発生したテロ事件である。
<br /><br />
<div align="center">
<iframe width="500" height="350" frameborder="0" scrolling="no" marginheight="0" marginwidth="0" src="http://maps.google.co.jp/maps/ms?ie=UTF8&amp;hl=ja&amp;msa=0&amp;msid=106116396797395546097.0004481abf7398b40f757&amp;s=AARTsJqxVQAP-0Xc-O7oMRWTcyodJLxxxw&amp;ll=38.871005,-77.055981&amp;spn=0.005847,0.010729&amp;t=h&amp;z=16&amp;output=embed"></iframe><br /><small><a href="http://maps.google.co.jp/maps/ms?ie=UTF8&amp;hl=ja&amp;msa=0&amp;msid=106116396797395546097.0004481abf7398b40f757&amp;ll=38.871005,-77.055981&amp;spn=0.005847,0.010729&amp;t=h&amp;z=16&amp;source=embed" style="color:#0000FF;text-align:left">大きな地図で見る</a></small>
</div>
<br /><br />
2001年9月11日は台風15号と台風16号が関東地方と沖縄を襲い、多くの被害をもたらしたため、テロ発生までのニュース番組はこの話題一色となっていた。しかし22時（日本時間）ごろ、「ニューヨーク・世界貿易センタービルに航空機が激突（1機目のアメリカン航空11便）」という情報が、各局のニュース番組またはニュース速報で伝えられ始めた。NHKニュース10（NHK総合）でも、冒頭のヘッドラインは台風の話題だった。しかし、カメラの前に登場したキャスターが発した最初のニュースは台風ではなく、このテロの第一報だった。
<br /><br />
第一報を伝えるニュースの画面に映し出されたのは「炎上するビル」の映像であり、「事故」なのか「事件」なのか判然としないものだった。1機目激突の瞬間を捉えた報道機関のカメラはなく、一市民であるフランス人カメラマンが撮影した映像はかなり時間が経つまで放送されなかった。ただ、NHKニュース10に出演していたコメンテーターは、晴天時での不可思議な激突状況からか2機目突入前からテロの可能性を指摘していた。CNNでも同じような理由からテロの可能性が指摘されていたが、同時に、1945年7月28日にエンパイアステートビルにアメリカ陸軍のB-25爆撃機が衝突した事故を例に挙げ、操縦ミスによる突発的な事故である可能性も取りざたされていた（なお、1945年の事故のときは深い霧が出ていた）。
<br /><br />
しかし、直後の22時3分、2機目のユナイテッド航空175便がツインタワーのもう一つ（南棟）に突入。生放送を行っていたNHKニュース10では、この瞬間が生中継された。NHKの映像では、画面右側から飛行機が現れ、燃え上がる北棟の真後ろに隠れるように見えた。北棟の真後ろには南棟があった。数秒の後、南棟を襲った巨大な爆発によって炎と黒煙が上がる様子が映し出された。南棟が北棟に隠れていたため画面を通して見れば1機目の激突で炎上する北棟が2度目の大爆発を起こしたように見え、NHKの支局の報道者は単に「今、また爆発がありました」と伝えた。アナウンサーは「あっ！今、2機目の飛行機が突入したように見えましたが！？」と聞き返した。この映像は数日の間、何度となく繰り返された。ニュースステーションではCNNの映像をそのまま放送しており、1機目激突後の時点ではまだ事故と考えられていたため、ニュースステーションでは1機目の激突により炎上する北棟の映像を暫く流した後、台風関連のニュースを伝えていた。この間に2機目の突入が起こったため、突入の瞬間は生で放映されなかった。しかしすぐに再びWTC関連のニュースに切り替えられた。
<br /><br />
22時20分頃、NHKは「旅客機がビルに激突したと見られる」と伝えた。22時30分、フロリダ州の小学校を訪れていたブッシュ大統領が記者会見で「明らかなテロ」と発言した。22時45分頃、「ペンタゴン（国防総省）が炎上」というニュースが各局で伝えられ、ニューヨークとワシントンの一連の事件は「同時多発テロ」であるとの見方が固まった。間もなく炎上するペンタゴンの映像も放送され、爆発・火災の原因が3機目の旅客機の可能性があると伝えられた。旅客機がハイジャックされていたという現地メディアの報道も国内に伝えられ始めた。
<br /><br />
各ニュース番組では、2つの台風や、前日の千葉県における狂牛病疑惑の牛発見など、放送予定だった他のニュースを差し置いて、ニューヨーク・ワシントンとの中継映像が放送され続けた。時間（事件の拡大）とともに民放各社も次々に通常番組を打ち切り、臨時ニュースを開始した。TBSは22時37分、放送中のジャングルTVの途中から筑紫哲也のニュース23を前倒しで開始。フジテレビではドラマウソコイ最終回を放送中だったが、番組の途中でニュースを何度か流した後、ドラマ終了直前から報道特番を開始した。
<br /><br />
<div align="center"><img src="http://farm1.static.flickr.com/106/290165442_e2acaf9132.jpg?v=0" alt="ペンタゴン" style="border: 1px solid #ddd"></div>
<br /><br /> 
世界貿易センタービルが崩壊した直後23時過ぎ、世界貿易センタービルの一つが崩壊したとの情報が入り（南棟）、23時半過ぎにはビルの両方が崩壊したとの情報が入った（北棟）。NHKではどちらもワシントンと中継を結んでいる間に崩壊が起こり、崩壊の映像は中継されなかった。しかし間もなく、巨大な超高層ビルが次々に崩壊し、膨大な瓦礫と化してマンハッタン南部が炎と煙で覆われるという衝撃的な映像が全国に報道された。さらに23時40分頃、4機目（ユナイテッド航空93便）がペンシルベニア州西部に墜落したというニュースが入った。NHKのアナウンサーは次々と起こる惨劇を報道する中で「これは現実の映像です。」という日常では考えられない言葉を発するほどであった。
<br /><br />
日本のほとんどのメディアは徹夜でニュースを伝え続け、深夜のCMが全面休止され、1985年8月12日に発生した『日航ジャンボ機墜落事故（日本航空123便墜落事故）』以来の終夜放送を行った[1]。
<br /><br />
翌9月12日の午前6時25分、世界貿易センターの第7ビルが崩壊した。8時30分ごろ、日本人の大学生1人がユナイテッド航空93便に搭乗していたという情報が入った。9時30分からブッシュ大統領がホワイトハウスで行った演説が中継され、10時20分から小泉首相、福田康夫官房長官が首相官邸で記者会見を開始した。午後1時50分ごろ、1機目激突の瞬間を撮影したフランス人カメラマンの映像が放送された。こうしてこの日もほとんどテロ事件関連ニュース一色となった。夜のゴールデンタイム枠ではお笑い・バラエティ番組が休止され、特別番組が放送（TBSのナイター中継は通常時間より1時間短縮放送し、特別番組を放送）された。
<br /><br />
テレビでは事件から1週間ほどは通常番組を削って特別報道番組を組む局もあった。また、ビルが破壊されるシーンのあるパニック映画などが自粛されたり、音楽シーンにおいても、鬼束ちひろが事件の4日前に発表した楽曲「infection」がテロを予見しているかのような歌詞の内容であるとしてプロモーション活動を自粛するなど影響が出た。新聞各紙も大見出しで事件を伝え、号外も発行された。多くの週刊誌も最大級の扱いで事件を伝えた。
<br /><br />
<div align="center"><img src="http://farm1.static.flickr.com/48/161985026_de1b11b65b.jpg?v=0" alt="ワールドトレードセンター" style="border: 1px solid #ddd"></div>]]></description>
<link>http://xn--rhqs6l216a.maply.info/2008/03/post_36.html</link>
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<pubDate>Tue, 11 Mar 2008 04:55:10 +0900</pubDate>
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<title>神聖ローマ帝国　成立</title>
<description><![CDATA[神聖ローマ帝国は、962年から1806年に中世に現在のドイツ、オーストリア、チェコ、イタリア北部を中心に存在していた政体。帝国というよりは実質的に大小の国家連合体であった期間が長く、この中から後のオーストリア帝国（当時はオーストリア大公領およびハプスブルク家支配地域）やプロイセン王国などドイツ諸国家が成長していった。ドイツ帝国とも呼ばれ、1806年帝国解散の詔勅はこの名で行われた。<br /><br />
<div align="center">

<iframe width="500" height="350" frameborder="0" scrolling="no" marginheight="0" marginwidth="0" src="http://maps.google.co.jp/maps/ms?ie=UTF8&amp;hl=ja&amp;msa=0&amp;msid=106116396797395546097.0004471bff454e60f6f59&amp;s=AARTsJpv8alIyHhSoVKSX6BumwwHJo-ixw&amp;ll=49.61071,14.765625&amp;spn=19.968565,43.945313&amp;z=4&amp;output=embed"></iframe><br /><small><a href="http://maps.google.co.jp/maps/ms?ie=UTF8&amp;hl=ja&amp;msa=0&amp;msid=106116396797395546097.0004471bff454e60f6f59&amp;ll=49.61071,14.765625&amp;spn=19.968565,43.945313&amp;z=4&amp;source=embed" style="color:#0000FF;text-align:left">大きな地図で見る</a></small>

</div>
<br /><br />
962年オットー1世（大帝）がローマ教皇ヨハネス12世により、古代ローマ帝国の継承者として皇帝に戴冠したときから始まる。もっとも神聖ローマ皇帝の初代はゲルマン部族国家の王で最初にローマ教皇権と結託してローマ皇帝の帝冠を頂いたカール大帝であるという思想・理念もある。
<br /><br />
もともとザクセン部族大公権を権力の母体としてその歴史を開始しており、ザクセン人の伝統はフランク人と違って非常時以外には王を戴かぬ選挙王制だったため、当初から帝権は弱体で、封建領主の連合体という側面が強かった。その上歴代皇帝は、「ローマ帝国」という名目の為にイタリアの支配権を唱え、度々侵攻した（イタリア政策）。このためドイツでの帝権強化にまで手が回らず、他国に比べ中央集権化が遅れた。
<br /><br />
1254年にホーエンシュタウフェン朝が断絶すると、20年近くも皇帝が選ばれもしない大空位時代となり、帝国としての実体をまったく成さない状態となった。14世紀のカール4世（在位；1347年 - 1378年）による金印勅書以降、皇帝は有力な7人の封建領主（選帝侯）による選挙で選ばれるようになり、さらに選帝侯には裁判権、貨幣鋳造権、独自の外交権等の強大な自治権が与えられた。
<br /><br />
これに対し、1495年から、帝国改造が皇帝マクシミリアン1世とマインツ大司教ベルトルト・フォン・ヘンネブルクの主導で行われた。その結果、神聖ローマ帝国は諸侯の連合体として新たな歴史を歩むこととなる。この帝国改造の流れに終止符を打ったのが1648年のヴェストファーレン条約であった。これにより、各諸侯に大幅な自治が認められる一方、平和的な紛争解決手段が整えられ、諸侯の協力による帝国の集団防衛という神聖ローマ帝国独特の制度が確立することとなった。
<br /><br />
しかしながら、その後プロイセンが台頭したことにより、諸侯のバランスは崩壊。帝国はやがて機能不全に陥った。
<br /><br />
19世紀初頭にはフランス皇帝ナポレオン・ボナパルトの侵攻を受け、ナポレオンがフランスの属国的なライン同盟を結成し、帝国からの脱退を宣言すると、既に「オーストリア皇帝フランツ1世」を称していた神聖ローマ帝国皇帝フランツ2世は退位し、帝国は完全に解体されて終焉を迎えた。
<br /><br /><div align="center">
神聖ローマ皇帝の選帝侯たち<br />
<img src="http://farm3.static.flickr.com/2361/1552565564_eb7b39fe1c.jpg?v=0" alt="神聖ローマ皇帝の選帝侯たち" style="border: 1px solid #ddd">
<br /><br />
ウィーン王宮宝物館にある神聖ローマ帝国の王冠<br />
<img src="http://farm1.static.flickr.com/196/475975227_bede94eeee.jpg?v=0" alt="神聖ローマ帝国の王冠" style="border: 1px solid #ddd"></div>]]></description>
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<pubDate>Wed, 27 Feb 2008 13:04:10 +0900</pubDate>
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<title>黄巣の乱</title>
<description><![CDATA[黄巣の乱の指導者は黄巣という。唐に対して反乱を起こし、事実上唐を滅亡させた。曹州・冤句県（山東省・河南省の境目）出身。
<br /><br />
<div align="center">
<iframe width="500" height="450" frameborder="0" scrolling="no" marginheight="0" marginwidth="0" src="http://maps.google.co.jp/maps?ie=UTF8&amp;s=AARTsJqzARj-Z8VnW5pkPMLMmZbqrJcYpw&amp;ll=35.065973,115.114746&amp;spn=8.089571,10.986328&amp;z=6&amp;output=embed"></iframe><br /><small><a href="http://maps.google.co.jp/maps?ie=UTF8&amp;ll=35.065973,115.114746&amp;spn=8.089571,10.986328&amp;z=6&amp;source=embed" style="color:#0000FF;text-align:left">大きな地図で見る</a></small>
</div>
<br /><br />
黄巣は若い頃は官吏を目指していたが科挙に何度も落第し、諦めた後は私塩の密売に関っていた。874年、同じ塩の密売人であった王仙芝が挙兵するとこれに参加し、反乱軍の重鎮となった。塩の専売は当時の国家にとって非常に重要な財源で、財政が悪化すると値が引き上げられる。これに対し塩の密売業者が安い値段で売っても巨額の利益が上がり、さらに安く売ってもらった民衆からは感謝されて、政府からの取締りが来ても民衆が庇ってくれる事が多かった。既に傾いていた唐は塩の値段を吊り上げ、その事で各地に黄巣達と同じような密売業者がたくさんいて、黄巣達の反乱は瞬く間に規模が大きくなった。
<br /><br />
途中で黄巣と王仙芝は分裂し、黄巣軍は各地を転戦し、878年に広州を落とし、880年には洛陽・長安を相次いで陥落させ、僖宗は蜀へと逃げた。長安に入った黄巣は国号を斉として、皇帝と称号した。だが、黄巣軍には政治を取れるものはおらず、無闇に略奪を繰り返し、また黄巣自身も唐の高官を大量に殺害するなど悪政が目立ち、民心は次第に離れて行った。この中には江南に逃亡した学者として著名な皮日休もいた。
<br /><br />
この状態に見切りを付けた黄巣軍の幹部の朱温は蜀の唐政府に寝返り、さらに突厥沙陀部の李克用も参戦したために黄巣軍は長安を追われた。その後何とか頽勢を挽回しようと試みたが、884年の夏5月に中牟県の北にある王満渡の決戦に敗れた。同時に部下の尚譲の裏切りで黄巣は瑕丘を経て、故郷に近い泰山付近の狼虎谷に逃亡した。そこで、黄巣は甥の林言に介錯させて自害した。その後も小規模の乱が続いたが間もなく鎮圧された。この乱は初めは王仙芝が起こした事項だが、黄巣の名を取って黄巣の乱と呼ばれる。
<br /><br />
この乱により全国王朝としての唐は実質上滅び、春秋時代の周のように一地方政権へと下落した。この後、黄巣軍から出てきた朱温が907年には唐を滅ぼすことになる。]]></description>
<link>http://xn--rhqs6l216a.maply.info/2008/02/post_34.html</link>
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<pubDate>Sat, 16 Feb 2008 22:23:01 +0900</pubDate>
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<title>オガデン戦争</title>
<description><![CDATA[<strong>オガデン戦争</strong>は、1978年から1988年にかけてエチオピアとソマリアの間で起こった戦争。起こった場所の通称からアフリカの角戦争とも呼ぶ。
<br /><br />
<iframe width="500" height="350" frameborder="0" scrolling="no" marginheight="0" marginwidth="0" src="http://maps.google.co.jp/maps/ms?f=q&amp;hl=ja&amp;geocode=&amp;ie=UTF8&amp;msa=0&amp;msid=113984595681420237076.000445e134703f9d002e2&amp;om=0&amp;s=AARTsJqvBURiWkFzj47Bo-FJ6VHNIRcbfA&amp;ll=9.145486,42.1875&amp;spn=30.033384,43.945313&amp;z=4&amp;output=embed"></iframe><br /><small><a href="http://maps.google.co.jp/maps/ms?f=q&amp;hl=ja&amp;geocode=&amp;ie=UTF8&amp;msa=0&amp;msid=113984595681420237076.000445e134703f9d002e2&amp;om=0&amp;ll=9.145486,42.1875&amp;spn=30.033384,43.945313&amp;z=4&amp;source=embed" style="color:#0000FF;text-align:left">大きな地図で見る</a></small>
<br /><br />
ソマリアの主な民族であるソマリ族は、ソマリアの他にケニア東部、エチオピアのオガデン州、ジブチに居住している。これら全てを統合した民族国家を建設しようとする大ソマリ主義が台頭した。
<br /><br />
特にエチオピアのソマリ解放運動はソマリアに支援されて1977年には激化の一途をたどった。同年8月にはエチオピアとソマリアとの間に紛争が発生し始め、11月には運動によるオガデン州分離独立の危機も発生した。エチオピア軍はソマリ解放運動への支援を絶つためソマリアとの直接対決を決意、1978年2月に開戦した。
<br /><br />
エチオピアは1974年にクーデターによって皇帝を廃位し社会主義を宣言、以来ソビエト連邦との友好関係を築いてきた。
<br /><br />
開戦後、当初ソ連は双方の側に立って仲介を試みたが失敗。1978年11月に両国は友好協力条約を調印し、ソ連はエチオピアに対し武装船団による大々的な支援を行い、ソマリアへの援助を停止した。また、キューバは1万5千人の兵力を派遣してエチオピアを支援し、南イエメンや北朝鮮、東ドイツも軍事訓練の面などでエチオピアを援助した。
<br /><br />
これに対し、ソマリアをアメリカ合衆国が支援したため、オガデン戦争は冷戦の代理戦争の様相を呈した。また、一方で中ソ論争でソ連と対立していた中華人民共和国と、チャウシェスク大統領の下で独自路線を展開していたルーマニアはソマリア側についた。
<br /><br />
ソマリア<br />
<img src="http://farm1.static.flickr.com/24/40388289_d0bcf27601.jpg?v=0" alt="ソマリア" style="border: 1px solid #ddd">
<br /><br />
エチオピア<br />
<img src="http://farm2.static.flickr.com/1230/555648386_dd398eeb6a.jpg?v=0" alt="エチオピア" style="border: 1px solid #ddd">
]]></description>
<link>http://xn--rhqs6l216a.maply.info/2008/02/post_33.html</link>
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<pubDate>Mon, 11 Feb 2008 21:34:29 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>一条鞭法</title>
<description><![CDATA[<strong>一条鞭法</strong>は、中国の税制。丁税と地税を一括して銀納する税制であり、明王朝の後期には中国各地で施行された。<br /><br />
<div align="center">現在の地図と明時代の地図を見比べてみる<br /><br />
<iframe width="500" height="350" frameborder="0" scrolling="no" marginheight="0" marginwidth="0" src="http://maps.google.co.jp/maps?hl=ja&amp;ie=UTF8&amp;om=0&amp;s=AARTsJphchmq1u9uXVFfIqAUqGPa-d4fvg&amp;ll=34.452218,105.117188&amp;spn=49.810819,87.890625&amp;z=3&amp;output=embed"></iframe><br /><small><a href="http://maps.google.co.jp/maps?hl=ja&amp;ie=UTF8&amp;om=0&amp;ll=34.452218,105.117188&amp;spn=49.810819,87.890625&amp;z=3&amp;source=embed" style="color:#0000FF;text-align:left">大きな地図で見る</a></small>
<br /><br />
↓↓　明（1368年 - 1644年）の地図
<a href='http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/12/Ming-Empire2.jpg' target='_blank'><strong></strong></a><a href='http://e0166.com/blogBB/pallet.php' target='_blank'>【e】</a><br><br><a href='http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/12/Ming-Empire2.jpg' target='_blank'><img src='http://img.simpleapi.net/small/http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/12/Ming-Empire2.jpg' alt='' width='160' height='160' hspace='8' vspace='4' align='center' border='0'></a><br clear='all'></div>
<br /><br />
16世紀に入り、海禁政策が弛緩してアメリカ大陸や日本から多くの銀（メキシコ銀、日本銀）が流入したことが背景にある。16世紀中ごろには既に江南などで実施されており、16世紀末の万暦帝期において、宰相張居正のもとで全国に広まった。複雑化していた税制を、丁税（人頭税）と地税にまとめ、一括して銀で納税することを定めたものである。のちの清代における<strong>地丁銀制</strong>に影響を与えた。
<br /><br />
世界史上における意義としては、フランクら一部の歴史家によれば、一条鞭法の導入は近代以前のユーラシアで最大の経済力を持つ中華帝国における通貨としての銀の重要性を従来以上に高め、東アジア全域で銀流通を活発化した。そのため、南北アメリカ大陸の膨大な銀生産を独占する西ヨーロッパ諸国の影響力が強まり、ヨーロッパによる世界制覇の遠因となったとされる。
<br /><br />
地丁銀制は、中国の税制。 明代以来の一条鞭法に代わって実施された清代の税制。地銀（田畑の所有に対して課された税。地税とも言う）の中に丁銀（人丁、すなわち16歳?59歳の成年男子に課された人頭税。丁税とも言う）を繰り込み、一括して銀納させた。
]]></description>
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<pubDate>Mon, 04 Feb 2008 18:38:38 +0900</pubDate>
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<item>
<title>ヴァンダル王国</title>
<description><![CDATA[ヴァンダル族は、ローマ帝国末期にヨーロッパ中央部に侵入してきた東ゲルマン人の一部族で、北アフリカのカルタゴを中心にヴァンダル王国を建国した。
<br /><br />
<iframe width="500" height="450" frameborder="0" scrolling="no" marginheight="0" marginwidth="0" src="http://maps.google.co.jp/maps?ie=UTF8&amp;t=h&amp;om=0&amp;s=AARTsJqzARj-Z8VnW5pkPMLMmZbqrJcYpw&amp;ll=38.255436,6.394043&amp;spn=7.762138,10.986328&amp;z=6&amp;output=embed"></iframe><br /><small><a href="http://maps.google.co.jp/maps?ie=UTF8&amp;t=h&amp;om=0&amp;ll=38.255436,6.394043&amp;spn=7.762138,10.986328&amp;z=6&amp;source=embed" style="color:#0000FF;text-align:left">大きな地図で見る</a></small>
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<a href="http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/63/Vandals_455.jpg">ヴァンダル王国（455年）の地図</a>
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19世紀の研究により、ヴァンダル族はPrzeworsk文化に属することが明らかになった。また、ゲルマン人とも原スラヴ人ともいわれるリュージイ族との関係も議論されており、リュージイ族が後にヴァンダル族と呼ばれるようになったか、ヴァンダル族はリュージイ族の連合体の一部だったとする説がある。ヴァンダル族の起源については、名前の類似性から、ノルウェーのハリングダール、スウェーデンのヴェンデル、デンマークのヴェンドシッセルが彼らの故郷ではないかという意見がある。
<br /><br />
紀元前2世紀に、ヴァンダル族はバルト海を渡ってポーランドに到着し、紀元前120年頃からシレジアに定住するようになったと推測されている。98年に、ゲルマニア地方を流れるオーデル川とヴィスワ川の間に彼らが居たことが、ローマの歴史家タキトスや後の歴史家によって記録されている。
<br /><br />
ヴァンダル族は、シリンジイとハスディンジイの２つの系統に分けられる。シリンジイは、マグナ・ゲルマニア、のちのシレジアと呼ばれる地域に何世紀にも渡って住んでいた。2世紀に、ハスディンジイは、王のラウスとラプトに率いられて南に移動し、ドナウ川下流でローマ帝国を攻撃しはじめた。その後、ローマ帝国と和睦しルーマニアの西ダキアとハンガリーに定着した。
<br /><br />
400年から401年にかけて、おそらくフン族の侵入によって、ゴディギゼル王のもとヴァンダル族はスエビ族などの他のゲルマン諸族やサルマティア人のアラン族と一緒に西方への移動を開始した。シリンジイはのちに彼らに加わった。
<br /><br />
この頃、すでにハスディンジイはキリスト教化されていた。ゴート族の初期と同じように彼らも、イエス・キリストは父なる神と等しい存在ではないとするアリウス主義を取り入れていたが、イエス・キリストは神に最も近い存在として特別に創造されたものだとしていた。 これは、ローマ帝国において主流であったキリスト教の信仰とは正反対のものであった。
<br /><br />
ヴァンダル族はドナウ川沿いに西方へと移動したが、ライン川にたどりついた辺りで、北ガリアにあるローマ帝国の属国にいたフランク族の抵抗にあった。この戦いによって、ゴディギゼル王を含めて2万人のヴァンダル族が死亡したが、アラン族の助けを借りてなんとかフランク族を負かすことができた。406年12月31日、ヴァンダル族はライン川を渡り、ガリアに侵入した。ゴディギゼルの息子グンデリク率いるヴァンダル族は、ガリアの西や南へ略奪して回った。
<br /><br />
409年10月、ピレネー山脈を越えてスペインに入った。そこは、ローマ帝国から建国を許された土地であった。アラン族がポルトガルとカルタヘナ一帯を領有し、ヴァンダル族はガリシアとアンダルシアを得た。しかし、スエビ族がガリシアの一部を支配し続け、また西ゴート族がローマ帝国からフランス南部の土地を受け取る前にスペインに侵入し、ヴァンダル族やアラン族との紛争の原因となっていた。
<br /><br />
<img src="http://farm1.static.flickr.com/105/261735607_be97f69471.jpg?v=0" alt="古都カルタゴ" style="border: 1px solid #ddd">
<br /><br />
グンデリクの兄弟ゲイセリックは、艦隊の建造を始めた。38歳のゲイセリックが王になった後の429年、ジブラルタル海峡を渡り、アフリカ沿岸をカルタゴに向かって東方に移動しはじめた。435年に、ローマ帝国は北アフリカのいくつかの領土を彼らに与えたが、439年、ヴァンダル族は自らカルタゴを占領した。ゲイセリックはここにヴァンダル族とアラン族からなるヴァンダル王国を建国した。この王国は地中海における一大勢力となり、シチリア島、サルデニア島、コルシカ島、バレアレス諸島を征服している。
<br /><br />
455年には、ローマを占領し、468年には彼らを征服するために派遣されたバシリスクス率いる東ローマ帝国艦隊を壊滅させた。477年、ゲイセリックが死去するとその息子フネリックが王となった。彼の治世には、ミトラ教とカトリック教会への迫害があったことで有名である。フネリックの次の王グンタムント（484年-496年）は、カトリック教への迫害を止め、平和的な関係を実現しようとした。
<br /><br />
ゲイセリックの死によって、ヴァンダル王国の対外的な力は衰え出した。グンタムント王は、東ゴート族によってシチリア島の大半を失い、また増大するムーア人の侵入に押されている状況にあった。ヒルデリック王は、先のローマ占領の際に連れてこられた西ローマ帝国の皇女の血を引いていたため最もカトリック教寄りの王であったが、戦争にはほとんど興味なく、身内のホアメルに任せていた。ホアメルがムーア人との戦争に敗北すると、王家の一部が反乱を起こし、ゲリメルが王位に就いた。ヒルデリックやホアメルらは牢獄に入れられた。
<br /><br />
かねてよりローマ帝国の復興を企図していた東ローマ帝国の皇帝ユスティニアヌス1世は、西ローマ帝国の血を引くヒルデリック王が倒されたことを口実にヴァンダル王国に対する戦争を開始し、サーサーン朝ペルシャとの戦いで活躍したベリサリウス将軍を派遣した。ヴァンダル王国の艦隊のほとんどがサルデニア島の反乱の鎮圧に赴いていることを知ったベルサリウス将軍は、 迅速に移動してチュニジアに上陸し、カルタゴに入城した。533年晩夏、ゲリメル王はカルタゴの南10マイルの所でベリサリウス将軍と戦った。（アド・デシミウムの戦い）ヴァンダル王国軍は、初戦に勝利したが、ゲリメルの甥ギバムントが敵に捕らえられてしまったことで士気を喪失し、崩壊した。ベルサリウスは、残党と戦う一方で、すばやくカルタゴを占領した。533年12月15日、カルタゴから20マイルほどのチカメロンで再び両軍は会戦した。そしてまたもやヴァンダル軍は敗れ、戦闘の最中にゲリメルの兄弟ツァツォが捕らえられてしまった。 ベルサリウスはすぐさま、ヴァンダル王国第二の都市ヒッポに軍を進めた。534年、ゲリメルは降伏し、ヴァンダル王国は滅亡した。
<br /><br />
<img src="http://farm1.static.flickr.com/181/373748904_2ab19fecb0.jpg?v=0" alt="ピレネー山脈" style="border: 1px solid #ddd">
<br /><br />
ヴァンダル族のアリウス主義とカトリック主義やドナティストたちの混在は、アフリカ国内における絶えざる火種となっていた。 ヒルデリックを除くほとんどのヴァンダル王は、程度の差はあれ、カトリック教徒を迫害した。フネリックの治世の最後の数ヶ月は例外として、カトリック教徒はめったに公に禁止されることはなかったが、ヴァンダル族へ布教することは許されず、その聖職者たちの扱いも良いものではなかった。
<br /><br />
中世になると、ヴァンダル族はポーランド人の祖先ではないかという通念がうまれた。実際に、一部のヴァンダル人は東ドイツやシレジアに戻っている。この移動は、のちのヴァンダロルム国とともに記録に残されており、そこでフランク王国のピピンがヴァンダル族と出会っている。ドイツのこの地域は、2000年経った今でもヴァンダロルムと呼ばれている。
<br /><br />
東ゴート族のテオドリック大王と西ゴート族の指導者は、ヴァンダル族やブルグンド族、クロヴィス1世を王とするフランク王国との政略結婚によって同盟関係を結び、生き残りを計った。
<br /><br />
後年、スウェーデンの伝承では、北アフリカに達したヴァンダル族と、アジア、ヨーロッパを席巻したゴート族が、スウェーデン人の先祖であると言うゴート起源説が生まれた。]]></description>
<link>http://xn--rhqs6l216a.maply.info/2008/01/post_31.html</link>
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<pubDate>Fri, 18 Jan 2008 03:02:14 +0900</pubDate>
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<item>
<title>テオティワカン</title>
<description><![CDATA[<strong>テオティワカン</strong>とは、メキシコシティ北東約50キロの地点にあり紀元前2世紀から6世紀まで存在した巨大な宗教都市遺跡。当時のアメリカ大陸では最大規模を誇っていた。
<br /><br />
<iframe width="500" height="350" frameborder="0" scrolling="no" marginheight="0" marginwidth="0" src="http://maps.google.co.jp/maps/ms?ie=UTF8&amp;hl=ja&amp;msa=0&amp;t=h&amp;om=1&amp;msid=113984595681420237076.000443100388c748427b7&amp;s=AARTsJq4RfVwf2PlMI7a-UbvjY24qrQH5g&amp;ll=19.694395,-98.843994&amp;spn=0.014142,0.021458&amp;z=15&amp;output=embed"></iframe><br /><small><a href="http://maps.google.co.jp/maps/ms?ie=UTF8&amp;hl=ja&amp;msa=0&amp;t=h&amp;om=1&amp;msid=113984595681420237076.000443100388c748427b7&amp;ll=19.694395,-98.843994&amp;spn=0.014142,0.021458&amp;z=15&amp;source=embed" style="color:#0000FF;text-align:left">大きな地図で見る</a></small>
<br /><br />
極めて計画的に設計された都市で太陽のピラミッド、月のピラミッドそして南北5キロにわたる道（「死者の大通り」）が基点となり各施設が配置されている。太陽のピラミッドの地下には、人類の起源の地との伝説のあるチコモストックをおもわせる七つの洞穴が枝状につながる洞窟があったので都市を建設する際の立地条件になったのかもしれない。紀元前50年にテスココ湖の南方に立地したクィクィルコがシトレ火山の噴火によって埋まると急速に発展した。都市の面積は約20平方キロメートルで、最盛期には、10万から20万人が生活を営み下水網も完備されていた。しかしながら人口の集中に伴い下水道もその処理能力を超えるようになり、やがて旱魃等の災害により、治安が悪化して、やがて滅びを迎えた。メソアメリカの中心的都市として機能していた。戦争や圧政のない平和な都市と考えられていたが、近年の発掘調査の結果から、生け贄を捧げる風習が存在したことが判明した。
<br /><br />
テオティワカンとは、「神々の都市」という意味で、これは後にこの地にやってきたアステカ人が命名した。
<br /><br />
古代都市テオティワカンとして、1987年に世界遺産(文化遺産)に登録されている。
<br /><br />
<img src="http://farm2.static.flickr.com/1135/1355881156_7a833bf392.jpg?v=0" style="border: 1px solid #ddd"><br />
<img src="http://farm3.static.flickr.com/2407/1536994971_e3b5f72f84.jpg?v=0" style="border: 1px solid #ddd">
<br /><br />
【主な遺構及び建造物】<br />
太陽のピラミッド (高さ65 m、底辺222 m×225 m） <br />
月のピラミッド (高さ47 m、底辺140 m×150 m）<br />
死者の大通り (南北に貫く都市のメインストリート 長さ4 km、幅45 m)<br /> 
ケツァルコアトルの神殿 <br />
ケツァルパパロトルの宮殿 ]]></description>
<link>http://xn--rhqs6l216a.maply.info/2008/01/post_30.html</link>
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<pubDate>Mon, 07 Jan 2008 00:59:37 +0900</pubDate>
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<item>
<title>マウリヤ朝</title>
<description><![CDATA[マウリヤ朝は、古代インドで栄えたマガダ国に興った王朝である。紀元前317年頃、チャンドラグプタによって建国された。アショーカ王の時に全盛期を迎え、南端部分を除くインド亜大陸全域を統一した。しかし王の死後国家は分裂し、紀元前2世紀初頭、シュンガ朝の勃興により滅亡した。
<br /><br />
<iframe width="500" height="350" frameborder="0" scrolling="no" marginheight="0" marginwidth="0" src="http://maps.google.co.jp/maps?ie=UTF8&amp;om=1&amp;s=AARTsJqzARj-Z8VnW5pkPMLMmZbqrJcYpw&amp;ll=22.441495,85.924072&amp;spn=3.553543,5.493164&amp;z=7&amp;output=embed"></iframe><br /><small><a href="http://maps.google.co.jp/maps?ie=UTF8&amp;om=1&amp;ll=22.441495,85.924072&amp;spn=3.553543,5.493164&amp;z=7&amp;source=embed" style="color:#0000FF;text-align:left">拡大地図を表示</a></small>
<br /><br />
いわゆる十六大国の中でも最も有力であったマガダ国ではナンダ朝が支配を確立していた。しかしナンダ朝はシュードラ（カーストの中で最下位）出身であったことからバラモン教の知識人達によって忌避されていた。こうした状況下にあってマガダ国出身の青年チャンドラグプタがナンダ朝に反旗を翻して挙兵した。これに対しナンダ朝は将軍バッサダーラを鎮圧に当たらせたが、チャンドラグプタはこれに完勝し、紀元前317年頃に首都パータリプトラを占領してナンダ朝の王ダナナンダを殺し新王朝を成立させた。これがマウリヤ朝である。
<br /><br />
こうしてガンジス川流域の支配を確立したチャンドラグプタはインダス川方面の制圧に乗り出した。インダス川流域はマウリヤ朝の成立より前にマケドニアの英雄アレクサンドロス大王によって制圧されていたが、アレクサンドロスが紀元前323年に死去すると彼の任命した総督（サトラップ）達の支配するところとなっていた。
<br /><br />
紀元前305年、ディアドコイ戦争の最中、アレクサンドロスの東方領土制圧を目指したセレウコス1世がインダス川流域にまで勢力を伸ばした。チャンドラグプタはその兵力を持ってセレウコス1世を圧倒して彼の侵入を排し、セレウコス朝に4州の支配権を認めさせてインダス川流域からバクトリア南部にいたる地域に勢力を拡大した。これが直接的な戦闘の結果であるのかセレウコス1世が戦わずしてマウリヤ朝の領域を認めたのかについては諸説あり判然としない。
<br /><br />
紀元前293年頃チャンドラグプタが死ぬと、彼の息子ビンドゥサーラが王となり更なる拡大を志向した。ビンドゥサーラの治世は記録が乏しい。彼はデカン高原方面へ勢力を拡大したとする記録があるが、実際には既に制圧済みだった領内各地で発生した反乱を鎮圧する一環だったとする説もある。ビンドゥサーラの息子に史上名高いアショーカがいた。ビンドゥサーラはアショーカと不和であり、タクシラで発生した反乱に際してアショーカに軍を与えずに鎮圧に向かわせたが、アショーカは現地の人心掌握に成功して反乱を収めたという伝説がある。
<br /><br />
<center><img src="http://farm1.static.flickr.com/165/421870503_6454aca828.jpg?v=0" style="border: 1px solid #ddd"></center>
<br /><br />
アショーカ王図紀元前268年頃ビンドゥサーラ王が病死すると、アショーカは急遽派遣先から首都パータリプトラに帰還し、長兄をはじめとする兄弟を全て殺害して王となったと伝えられる。しかしこれは王位継承の争いが後世著しく誇張されたものであるらしく、実際にはアショーカ王治世に各地の都市に彼の兄弟が駐留していたことがわかっている。とはいえ、彼の即位が穏便に行かなかった事は、彼が戴冠式を行ったのが即位の4年後であったことや、大臣達の軽蔑を受け忠誠を拒否するものが続出したという伝説などからもうかがわれる。アショーカ王は国内での反乱の鎮圧や粛清を繰り返しながら統治体制を固め、紀元前259年頃、南方のカリンガ国への遠征をおこなった。カリンガ国はかつてマガダ国の従属国であったが、マウリヤ朝の時代には独立勢力となっていた。
<br /><br />
アショーカ王による最大勢力範囲ギリシア人メガステネスの記録によればカリンガ国は歩兵6万、騎兵1千、戦象7百を擁する一大勢力であったとあり、マウリヤ朝の中央インド統治にとって最大の障害であった。激戦の末カリンガを征服したが、この時の戦争で多数の人命が失われた。カリンガ国の征服によってマウリヤ朝は南端部を除く全インドと現在のアフガニスタンを含む巨大帝国となったが、アショーカ王はカリンガ戦争のあまりに凄惨な被害を目にして自らの行いを悔い、それまで信者ではあっても熱心ではなかった仏教を深く信奉するようになり、ダルマによる統治を目指すようになったという。
<br /><br />
誇張はあるであろうが、アショーカ王が仏教を深く信仰したことは数多くの証拠から明らかであり、実際カリンガ戦争以後拡張政策は終焉を迎えた。仏教に基づいた政策を実施しようとした彼はブッダガヤの菩提樹を参拝するとともに、自分の目指したダルマに基づく統治が実際に行われているかどうかを確認するために領内各地を巡幸して回った。アショーカ王の事跡は後世の仏教徒に重要視され多くの仏典に記録されている。
<br /><br />
<center><img src="http://farm2.static.flickr.com/1097/1426781993_b12defc4b9.jpg?v=0" style="border: 1px solid #ddd"></center>
<br /><br />
アショーカ王は晩年、地位を追われ幽閉されたという伝説があるが記録が乏しくその最後はよくわかっていない。チベットの伝説によればタクシラで没した。アショーカ王には数多くの王子がいた。彼らは総督や将軍として各地に派遣されていたがその多くは名前もはっきりとしない。そして王位継承の争いがあったことが知られているが、その経緯についても知られていない。いくつかの伝説や仏典などの記録があるが、アショーカ王以後の王名はそれらの諸記録で一致せず、その代数も一致しないことから王朝が分裂していたことが想定されている。
<br /><br />
いくつかのプラーナ文献によればアショーカ王の次の王は王子クナーラであったが、彼はアショーカ王の妃の1人ティシャヤラクシターの計略によって目をえぐられたという伝説がある。クナーラ以後の王統をどのように再構築するかは研究者間でも相違があって容易に結論が出ない問題である。しかし分裂・縮小を続けたマウリヤ朝はやがて北西インドで勢力を拡張するヤヴァナ（インド・ギリシア人）の圧力を受けるようになった。『ガールギー・サムヒター』という天文書には予言の形でギリシア人の脅威を記録している。
<br /><br />
…暴虐かつ勇猛なヤヴァナはサーケータを侵略し、パンチャーラ、マトゥラーも侵し花の都（パータリプトラ）にも到達するであろう。そして全土は確実に混乱するであろう。… <br />
マウリヤ朝最後の王は仏典によればプシャヤミトラ、プラーナ聖典によればブリハドラタであった。これはブリハドラタとする説が正しいことがわかっている。プシャヤミトラはブリハドラタに仕えるマウリヤ朝の将軍であり、北西から侵入していたギリシア人との戦いで頭角を現していった。そして遂にはブリハドラタを殺害してパータリプトラに新王朝シュンガ朝を建て、マウリヤ朝は滅亡した。その時期は紀元前180年頃であったと考えられている。
]]></description>
<link>http://xn--rhqs6l216a.maply.info/2008/01/post_29.html</link>
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<pubDate>Tue, 01 Jan 2008 20:37:32 +0900</pubDate>
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<title>黄巣の乱</title>
<description><![CDATA[<strong>黄巣</strong>は中国唐代の反乱指導者。唐に対し、反乱を起こし、事実上唐を滅亡させた。曹州・冤句県（山東省・河南省の境目）出身。
<br /><br />
<iframe width="425" height="350" frameborder="0" scrolling="no" marginheight="0" marginwidth="0" src="http://maps.google.co.jp/maps/ms?ie=UTF8&amp;hl=ja&amp;msa=0&amp;om=1&amp;msid=113984595681420237076.000441ceccfc8fdff5a73&amp;s=AARTsJopv_UEHrutUV_aLxwMEiYe965heQ&amp;ll=35.657296,115.817871&amp;spn=6.24711,9.338379&amp;z=6&amp;output=embed"></iframe><br /><small><a href="http://maps.google.co.jp/maps/ms?ie=UTF8&amp;hl=ja&amp;msa=0&amp;om=1&amp;msid=113984595681420237076.000441ceccfc8fdff5a73&amp;ll=35.657296,115.817871&amp;spn=6.24711,9.338379&amp;z=6&amp;source=embed" style="color:#0000FF;text-align:left">拡大地図を表示</a></small>
<br /><br />
黄巣は若い頃は官吏を目指していたが科挙に何度も落第し、諦めた後は私塩の密売に関っていた。874年、同じ塩の密売人であった王仙芝が挙兵するとこれに参加し、反乱軍の重鎮となった。塩の専売は当時の国家にとって非常に重要な財源で、財政が悪化すると値が引き上げられる。これに対し塩の密売業者が安い値段で売っても巨額の利益が上がり、さらに安く売ってもらった民衆からは感謝されて、政府からの取締りが来ても民衆が庇ってくれる事が多かった。既に傾いていた唐は塩の値段を吊り上げ、その事で各地に黄巣達と同じような密売業者（政府は塩賊と呼んだ）がたくさんいて、黄巣達の反乱は瞬く間に規模が大きくなった。
<br /><br />
途中で黄巣と王仙芝は分裂し、黄巣軍は各地を転戦し、878年に広州を落とし、880年には洛陽・長安を相次いで陥落させ、僖宗は蜀へと逃げた。長安に入った黄巣は国号を斉として、皇帝と称号した。だが、黄巣軍には政治を取れるものはおらず、無闇に略奪を繰り返し、また黄巣自身も唐の高官を大量に殺害するなど悪政が目立ち、民心は次第に離れて行った。この中には江南に逃亡した学者として著名な皮日休もいた。
<br /><br />
この状態に見切りを付けた黄巣軍の幹部の朱温は蜀の唐政府に寝返り、さらに突厥沙陀部の李克用も参戦したために黄巣軍は長安を追われた。その後何とか頽勢を挽回しようと試みたが、884年の夏5月に中牟県の北にある王満渡の決戦に敗れた。同時に部下の尚譲の裏切りで黄巣は瑕丘を経て、故郷に近い泰山付近の狼虎谷に逃亡した。そこで、黄巣は甥の林言に介錯させて自害した（林言は叔父の首級を唐将の時溥の所に持参する途中で、沙陀部の軍隊に殺害され、その首級を奪われたという）。その後も小規模の乱が続いたが間もなく鎮圧された。この乱は初めは王仙芝が起こした事項だが、黄巣の名を取って黄巣の乱と呼ばれる。
<br /><br />
この乱により全国王朝としての唐は実質上滅び、春秋時代の周のように一地方政権へと下落した。この後、黄巣軍から出てきた朱温が907年には唐を滅ぼすことになる。
<br /><br />
<img src="http://farm3.static.flickr.com/2152/1799374178_2455202546.jpg?v=0" style="border: 1px solid #ddd">]]></description>
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<pubDate>Sat, 22 Dec 2007 01:48:44 +0900</pubDate>
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<title>ロシア革命</title>
<description><![CDATA[<strong>ロシア革命</strong>とは、1917年にロシア帝国で起きた2度の革命のことを指す名称である。特に、史上最初の社会主義国家樹立につながった十月革命を指す場合もある。
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なお、「二月革命」、「十月革命」は当時ロシアで用いられていたユリウス暦における革命勃発日を基にしており、現在一般的に用いられるグレゴリオ暦ではそれぞれ「三月革命」、「十一月革命」となる。
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<iframe width="500" height="350" frameborder="0" scrolling="no" marginheight="0" marginwidth="0" src="http://maps.google.co.jp/maps?ie=UTF8&amp;t=h&amp;om=1&amp;s=AARTsJqzARj-Z8VnW5pkPMLMmZbqrJcYpw&amp;ll=61.100789,95.449219&amp;spn=30.444474,87.890625&amp;z=3&amp;output=embed"></iframe><br /><small><a href="http://maps.google.co.jp/maps?ie=UTF8&amp;t=h&amp;om=1&amp;ll=61.100789,95.449219&amp;spn=30.444474,87.890625&amp;z=3&amp;source=embed" style="color:#0000FF;text-align:left">拡大地図を表示</a></small>
<br /><br />
二月革命は食糧不足を原因に市民が帝政への不満の声を上げた散発的な抗議デモから始まった。市民の不満はロシアの第一次世界大戦への参戦継続にも向けられた。抗議デモが数日の内に全ペトログラードにまで拡大をとげると、様々な革命的政党が活動を始めた。三月前半には首都の連隊に所属する多くの兵士も反乱を起こし、多くの市民を巻き込んで抗議運動は猛烈なものとなった。これらの動きを見た政府や軍首脳は専制の継続を無理と判断し、ニコライ2世に退位を勧告し300年におよぶロマノフ朝は終わりをつげた。
<br /><br />
二月革命から十月革命の間に、多数の無政府主義者および共産主義革命論者は革命の拡大を試みた。7月にペトログラードのボリシェヴィキは労働者階級および無政府主義者と共同して市民の蜂起を試みたが、この動きは臨時政府により鎮圧された。
<br /><br />
二月革命後にドゥーマ議員、特にカデットを中心として臨時政府が発足した。その一方で労働者や兵士の意見を代表するソヴィエト（この頃はメンシェヴィキ、社会革命党が中心であった）も発足しており、この両権力が連携して政権運営がなされた。
<br /><br />
社会革命党のケレンスキーが指揮する臨時政府は、従来の英・仏・露による同盟関係を尊重し、対ドイツ戦を継続する姿勢をとった。これにはソヴィエトも当初は同調していたが、ボリシェヴィキの指導者レーニンが亡命先のスイスから封印列車に乗り帰国すると、"平和とパンの要求"（四月テーゼ）を掲げて戦争継続の姿勢をとる臨時政府を批判した。しかしこの時点ではボリシェヴィキはソヴィエトにおける少数派にとどまっていた。
<br /><br />
七月に入り臨時政府内部の対立が顕在化した。軍内部の革命勢力の一掃を求める最高司令官のコルニーロフ将軍と彼を任命したケレンスキー首相の対立が深まり、コルニーロフは反臨時政府のクーデタを引き起した。ケレンスキーは赤衛軍の助けを借りてこれを鎮圧したが、その中心となったボリシェヴィキはソヴィエト内での権威を高め、全ての権力をソヴィエトに集約すべきという見解も一般的になっていった。
<br /><br />
<img src="http://farm2.static.flickr.com/1258/1382774043_4e113f0b95.jpg?v=0" style="border: 1px solid #ddd">
<br /><br />
コルニーロフの反乱が失敗に終わるとボリシェヴィキへの支持が高まった。8月末から9月にかけ、ペトログラードとモスクワのソヴィエトでボリシェヴィキ提出の決議が採択され、ボリシェヴィキ中心の執行部が選出された。これを受け、レーニンは武装蜂起による権力奪取をボリシェヴィキの中央委員会に提起した。中央委員会は10月10日に武装蜂起の方針を決定し、10月16日の拡大中央委員会会議でも再確認した。
<br /><br />
一方、ペトログラード・ソヴィエトは10月12日に軍事革命委員会を設置した。これは元々はペトログラードの防衛を目的としてメンシェヴィキが提案したものだったが、武装蜂起のための機関を必要としていたボリシェヴィキは賛成した。トロツキーは「われわれは、権力奪取のための司令部を準備している、と言われている。われわれはこのことを隠しはしない」と演説し、あからさまに武装蜂起の方針を認めた。メンシェヴィキは軍事革命委員会への参加を拒否し、委員会の構成メンバーはボリシェヴィキ48名、エスエル左派14名、無政府主義者4名となった。
<br /><br />
前後して軍の各部隊が次々にペトログラード・ソヴィエトに対する支持を表明し、臨時政府ではなくソヴィエトの支持に従うことを決めた。10月24日、臨時政府は最後の反撃を試み、忠実な部隊によってボリシェヴィキの新聞『ラボーチー・プーチ』『ソルダート』の印刷所を占拠したが、軍事革命委員会はこれを引き金として武力行動を開始。ペトログラードの要所を制圧し、10月25日に「臨時政府は打倒された。国家権力は、ペトログラード労兵ソヴィエトの機関であり、ペトログラードのプロレタリアートと守備軍の先頭に立っている、軍事革命委員会に移った」と宣言した。臨時政府の閣僚が残る冬宮は26日未明に占領された。
<br /><br />
蜂起と並行して第二回全国労働者・兵士代表ソヴィエト大会が開かれた。冬宮占領を待ち、大会は権力のソヴィエトへの移行を宣言した。さらに27日、大会は全交戦国に無併合・無賠償の講和を提案する「平和についての布告」、地主からの土地の没収を宣言する「土地についての布告」を採択し、新しい政府としてレーニンを議長とする「人民委員会議」を設立した。
<br /><br />
<img src="http://farm2.static.flickr.com/1108/1382770409_729faf5140.jpg?v=0" style="border: 1px solid #ddd">
<br /><br />
1917年11月に憲法制定議会の選挙が行われたが、社会革命党など反対派が多数を占め、ボリシェヴィキは少数派に留まったため、ボリシェヴィキは1918年1月の憲法制定議会開催の2日目に議会を武力で解散させ、以後、議会を再開することはなかった。
<br /><br />
ブレスト・リトフスク条約締結をきっかけに南ロシア、シベリアなどの都市で白軍が蜂起しボリシェヴィキ政権に反旗を翻した。列強諸国も黒海沿岸への部隊派遣、白軍への協力、ポーランド・ソビエト戦争、シベリア出兵などを通じて干渉を加えた。ウクライナでは社会主義を掲げる民族主義者が十月革命に反対して独立国家を樹立した。中央アジアではバスマチ運動が活発に行われた。
<br /><br />
こうした反対派の動きに対し、ボリシェヴィキは、秘密警察チェーカーを活用してメンシェヴィキ、社会革命党（エスエル）などの他派を裁判なしに大量処刑して政権を固めると共に、次第に数を増して強力なものとなった赤軍の武力により各地の敵対勢力を屈服させ、列強諸国に部隊を撤退させた。また、ボリシェヴィキが得意としたのがプロパガンダ政策で、全ての非ボリシェヴィキ系新聞を完全に発禁にした。
<br /><br />
1922年、ボリシェヴィキは全国ソヴィエト大会で国家樹立を宣言し、他派を完全に排除した一党独裁を国是とするソヴィエト社会主義共和国連邦が成立した。]]></description>
<link>http://xn--rhqs6l216a.maply.info/2007/12/post_27.html</link>
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<pubDate>Sun, 16 Dec 2007 01:08:45 +0900</pubDate>
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<title>突厥</title>
<description><![CDATA[<strong>突厥</strong>（とっけつ、とっくつ）は6世紀から7世紀ごろ中央アジアに存在した遊牧民族と、それが中枢権力を構成して起こした中央ユーラシアに覇権をうちたてた遊牧国家名。アルタイ山脈の麓に住んでいた。
<br /><br />
突厥は「テュルク」を漢字表記したものと考えられ、その中枢権力を構成した集団は正にテュルク系であると考えられている。また、その可汗の一族の属した氏族は阿史那氏と呼ばれる。当初は柔然に従属して、アルタイ山脈の西南で鉄の鋳造や金の採取の業をもって仕えていた。6世紀中頃に強勢となり、同じテュルク系の鉄勒(これも「テュルク」の漢字表記)を服属させ、その力で柔然の支配を打ち破り独立した。
<br /><br />
その後はモンゴル高原に領土を広げ、サーサーン朝と結んでエフタルを滅ぼした。
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<iframe width="500" height="350" frameborder="0" scrolling="no" marginheight="0" marginwidth="0" src="http://maps.google.co.jp/maps/ms?ie=UTF8&amp;hl=ja&amp;msa=0&amp;t=p&amp;om=1&amp;msid=113984595681420237076.00044100b86e86dfb829b&amp;s=AARTsJq_lZhq9XYo1kAfgqGBHZPFdU8Vgw&amp;ll=47.338823,104.0625&amp;spn=41.813255,87.890625&amp;z=3&amp;output=embed"></iframe><br /><small><a href="http://maps.google.co.jp/maps/ms?ie=UTF8&amp;hl=ja&amp;msa=0&amp;t=p&amp;om=1&amp;msid=113984595681420237076.00044100b86e86dfb829b&amp;ll=47.338823,104.0625&amp;spn=41.813255,87.890625&amp;z=3&amp;source=embed" style="color:#0000FF;text-align:left">拡大地図を表示</a></small>
<br /><br />
東は中国の北方まで西はカスピ海にまで伸びる大勢力となった突厥だが遊牧民諸集団の連合体という遊牧国家の宿命ゆえ、国内では各遊牧集団を指導する、小可汗やベク、シャドの称号を持つ有力者が乱立しており、隋の離間策や強大になった国家運営を行える内治制度の不備などの理由から内部での対立が激しくなって東西に分裂した。
<br /><br />
その後、東突厥の啓民可汗（突利可汗）は隋より安義公主を降嫁され、隋の後ろ盾で突厥の大可汗となったがこの時期に鉄勒の独立運動が激しくなり、突厥全土には影響力は及ばなかった。
<br /><br />
隋の支配が乱れると啓民可汗の息子始畢可汗は勇躍し、隋に侵入して朝貢を停止した。また鉄勒を再び強い支配下に収め、隋を滅ぼした唐を圧迫した。627年に唐に侵攻し、唐は玄武門の変の直後で国境警備の兵は殺された李建成の指揮下にあったため動揺しており、突厥は簡単に長安のすぐ近く渭水まで迫った。この時、旧唐書によれば当時の唐皇帝の太宗に協約違反を責められてすぐに帰ったと書かれているが、これは非常に疑わしい。実際は突厥に有利な和約を結んで帰ったという所だろう。
<br /><br />
<img src="http://farm3.static.flickr.com/2071/1492925640_16eacde779.jpg?v=0" style="border: 1px solid #ddd">
<br /><br />
しかしその二年後には唐軍と独立した鉄勒との挟撃を受けて始畢可汗の弟頡利可汗、始畢可汗の息子突利可汗は唐に降伏し東突厥は滅び、唐の羈縻支配に置かれる事になる。その後も何度か唐に対して背き、682年には独立を果たして第二突厥帝国と呼ばれる国を建てる。しかし内紛が激しくなり、745年にウイグルを中心とした連合軍に攻められて完全に滅びた。
<br /><br />
西突厥はその後も内部紛争を繰り返し、唐の討伐を受けて衰退していった。
<br /><br />
文化面で言えば、突厥は、東アジアにおいて、漢民族以外で、日本のかな文字と同様に、比較的早くに独自の文字（突厥文字）を持った民族として知られる。そのことは、1889年以後に、モンゴル高原で発見された突厥碑文によって世に知られることとなった。中でも有名なのは、第二突厥帝国期の闕特勤碑文（オルホン碑文）である。
]]></description>
<link>http://xn--rhqs6l216a.maply.info/2007/12/post_26.html</link>
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<pubDate>Tue, 11 Dec 2007 20:00:19 +0900</pubDate>
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<item>
<title>マジャパヒト王国</title>
<description><![CDATA[マジャパヒト王国は13世紀末から16世紀始め頃までジャワ島中東部を中心に栄えたインドネシア最後のヒンドゥー教王国。最盛期にはインドネシア諸島全域とマレー半島まで勢力下に置いた。なお、表記に「マジャパイト」と書くこともある。
<br /><br />
<iframe width="425" height="350" frameborder="0" scrolling="no" marginheight="0" marginwidth="0" src="http://maps.google.co.jp/maps?ie=UTF8&amp;om=1&amp;s=AARTsJqzARj-Z8VnW5pkPMLMmZbqrJcYpw&amp;ll=-2.284551,118.828125&amp;spn=30.375727,37.353516&amp;t=h&amp;z=4&amp;output=embed"></iframe><br /><small><a href="http://maps.google.co.jp/maps?ie=UTF8&amp;om=1&amp;ll=-2.284551,118.828125&amp;spn=30.375727,37.353516&amp;t=h&amp;z=4&amp;source=embed" style="color:#0000FF;text-align:left">拡大地図を表示</a></small>
<br /><br />
1293年元王朝は朝貢を拒否したジャワのシンガサリ王国に遠征軍を派遣したが、シンガサリ王クルタナガラはクディリ王家の末裔と呼ばれる当地の領主ジャヤカトワンの反乱によって殺されていた。クルタナガラ王の娘婿であったウィジャヤはジャワ北岸のトゥバンに上陸した元軍と同盟して、ジャヤカトワンが乗っ取ったシンガサリ王国を滅ぼし、さらに元軍をジャワから追い出してマジャパヒト王国を建国した。ウィジャヤの即位名をクルタラジャサ＝ジャヤワルダナという。王国の都はジャワ島東部プランタス川流域のマジャパヒトに置かれた。
<br /><br />
マジャパヒトと元朝の関係は当然悪化したが、フビライが死去すると大きく好転し、1295年から1332年の間に10回の朝貢が行われた。
<br /><br />
1328年にジャヤナガラが死去すると後継男子がいなかったので、故クルタナガラ王の末娘ラージャパトニに後を継がせたが、ラージャパトニは熱心な仏教徒で出家していたので、娘のトリブワナーを摂政として政務を取らせた。この頃、親衛隊長から宰相に抜擢されたガジャ・マダがマジャパヒト王国を最盛期に導くことになる。1350年ラージャパトニが死去するとトリブワナーの息子ハヤム・ウルクがラージャサナガラとして即位した。
<br /><br />
<img src="http://farm1.static.flickr.com/151/386620884_64e85acda7.jpg?v=0" style="border: 1px solid #ddd">
<br /><br />
宰相ガジャ・マダは1342年にバリ島に侵攻したのを皮切りに、インドネシア各地に対する遠征を行い、スマトラ島のシュリーヴィジャヤ王国を滅ぼして南海の海上交易ルートを掌中に収めた。
<br /><br />
最盛期の支配領域はマレー半島のパタニやトゥマシク（シンガポール）、カリマンタン島に及び、東西交通の要衝であるマラッカ海峡とスンダ海峡を制圧した。またタイのアユタヤ王朝やカンボジア、ベトナムとも友好関係を持った。
<br /><br />
中国の明王朝は15世紀前半鄭和艦隊を7回にわたって南海に派遣し、ジャワのマジャパヒト王国にも来航した。鄭和艦隊の保護下にマラッカ王国が成立すると、南海貿易の中心はマラッカに移り、マジャパヒト王国はこの趨勢を食い止めることができなかった。また15世紀以降はイスラム教が浸透して、マラッカ王国がイスラム化したのを始め、ジャワ北岸のトバン、グルシクなどにもイスラム教国が成立する。
<br /><br />
一方、マジャパヒトの宮廷は東王宮と西王宮に別れ、次第に勢力を争うようになり、16世紀に始めにドゥマク王国を中心としたイスラム勢力に滅ぼされたとされる。
]]></description>
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<pubDate>Fri, 07 Dec 2007 22:36:04 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>ガーナ王国</title>
<description><![CDATA[ガーナ王国は、8世紀頃から11世紀にかけて、サハラ越えの金と岩塩の隊商貿易の中継地として繁栄した黒人王国である。金や岩塩のほかにも、銅製品や馬、刀剣、衣服、装身具などの各種手工業製品の交易路を押さえ、その中継貿易の利で繁栄した。
<br /><br />
ノク文化にはじまると考えられる西アフリカの鉄器時代前半のニジェール川流域周辺には、ニジェール＝コンゴ語族に属するマンデ人によるkafuとよばれる政治的単位ないし小首長国が形成されていた。１つのkafuは、合計すると10000人?50000人の規模に達する村落の連合体であり、それぞれのkafuは、マンサと呼ばれる宗教的、世俗的権威を兼ね備えた王ないし首長によって支配されていた。ガーナ王国は、そんなkafuのうち、マンデ人の北方のソニンケ語を話す人々ソニンケ族のkafuの連合国家であった。
<br /><br />
<iframe width="425" height="350" frameborder="0" scrolling="no" marginheight="0" marginwidth="0" src="http://maps.google.co.jp/maps?ie=UTF8&amp;t=h&amp;om=1&amp;s=AARTsJqzARj-Z8VnW5pkPMLMmZbqrJcYpw&amp;ll=7.819847,-0.922852&amp;spn=7.613413,9.338379&amp;z=6&amp;output=embed"></iframe><br /><small><a href="http://maps.google.co.jp/maps?ie=UTF8&amp;t=h&amp;om=1&amp;ll=7.819847,-0.922852&amp;spn=7.613413,9.338379&amp;z=6&amp;source=embed" style="color:#0000FF;text-align:left">拡大地図を表示</a></small>
<br /><br />
ガーナ王国に関する考古学調査は、1949年から1951年にかけてフランス人、P. テモセイとR.マウニーによって行われた、ガーナ王国の首都と考えられるモーリタニア南東部のティンペドラ＝ナラ街道沿いに位置するクンビ＝サレーの調査が知られる。この調査成果は、1956年に発掘報告書として公刊されている。アブー＝バクリは、クンビ＝サレーは、イスラムの町と6マイル離れた「王宮の町」で構成されていると記述しているが、「王宮の町」については発見されていない。イスラムの町については、アブー＝バクリが記述するような、集住的な石造りの建物が発見された。また北西部分には広大な墓地を伴い、アフリカでは初期の様式のモスクがあることが判明した。
<br /><br />
これらの建物は複数階の構造を持ち、地中海周辺で見られる様式のものであった。出土した精製土器やガラス器は、北アフリカ、マグリブ地方から輸入されたものであった。クンビ＝サレーの中央の通りとモスクから採取された有機物のサンプルから放射性炭素年代測定が行われ、13世紀初頭という値が得られ、11世紀後半にモロッコのムラービト朝に滅ぼされてからも町自体は2世紀近く繁栄を続けていたことが判明した。その後、セルジュ．ロベールによって、さらに下層の居住層の発掘調査が1975?76年に行われている。その調査成果は発表されていないが、予備調査の成果は、1972年に発表されている。
<br /><br />
この調査によって得られたサンプルで、6世紀から18世紀にわたる放射性炭素年代が得られており、現にクンビ＝サレーがガーナ王国時代に繁栄していたことが証明された。]]></description>
<link>http://xn--rhqs6l216a.maply.info/2007/12/post_24.html</link>
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<pubDate>Tue, 04 Dec 2007 01:21:24 +0900</pubDate>
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